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21.5世紀の民主主義について

成田悠輔さんの『22世紀の民主主義』(以下「本書」)を拝読したので、その内容を咀嚼しながら、現実の民主主義の脆弱性に立ち向かおうとしている身として過渡期における「21.5世紀の民主主義」について、整理しておこうと思います。
※私は成田悠輔さんとは面識がありますが、当記事は何らかの対価を得て執筆しているものではなく、PR目的のものでもありません。

1.民主主義はオワコンではない

1−1. 民主主義の発展と弱体化

動画メディア等ではラディカルな意見の述べられる著者だが、本書は冷静な分析を積み重ねられたうえで、「民主主義オワコンっぽくないか」と問題提起をしつつ、最終的には「無意識データ民主主義」という形態の提案をしており、民主主義自体を進化(あるいは深化)させようとしている。(余談だが、新書とは思えないほど多く論文や研究を引用しつつ、まさに新書らしい成田節がうまい具合にミックスしている点は良い読書体験であった)

さて、民主主義がオワコンっぽい根拠として、たとえば以下のような事項が挙げられている。
①21世紀に入ってから、民主主義的な国ほど経済成長が低迷し続けている(しかも相関関係ではなく因果関係として民主主義がその原因となっていると指摘)
21世紀に入ってから、非民主化・専制化する方向に政治制度を変更する国が増え、そのようなエリアに住む人口のほうが多数派になっている
③コロナ禍においては、民主的な国家ほど人が亡くなり、経済の失墜も大きかった(ただしコロナ禍初期2020年までのデータに基づく点は注意)
④過去200年の世界中の国々を対象とした分析によると、民主的な国家ほど金融危機が起きやすい

一方、民主主義の功績として、以下の研究実績も挙げられている。
中世から20世紀までの数百年間の経済成長には民主主義的な政治制度が良い影響を与えてきたことを示す研究が様々存在
⑥乳幼児死亡率などの公衆衛生指標に対しても民主主義的な政治制度(特に公正な選挙の導入)が歴史的に良い影響を与えている

やはり、明らかに20世紀末から21世紀にかけて、民主主義がどんどんと弱体化していっているように見える。本書はその原因についてもいくつかの仮説とともに述べているが、その中でも特筆すべきは人間の認知限界を超えた情報爆発とその生成・伝達を可能にした情報通信技術の発展である。
私自身も過去に以下の記事で述べたとおり、共同体の規模とその意思決定はその共同体が有する情報通信技術に依存すると考えている。

なぜなら、「共感性や想像力を働かせ、寄り添いながら共同体を形成できるコミュニティ」を形成・維持するにあたって、情報通信技術のレベルこそが最も重要なファクターであるからだ。

インターネット、特にWeb2.0が作り出した情報環世界は、人々を繋げ、存在を可視化し、声を上げる力を与えたと同時に、人々を環世界内に閉じ込め、環世界外の他者への共感を失わせた。資本主義の発展とケインズ主義的政策によってかろうじて保てていた共同体の均衡が、グローバル・金融資本主義の加速化によって広がる格差・中間層の没落とともに音を立てて崩れ去った。これが同時に起きたのが21世紀前半である。

1-2.  民主主義の正当性と正統性

しかし、民主主義がオワコンになったのではない。そもそも上に挙げられた①〜④は、民主主義を選択した共同体が本来甘受すべき側面である。より直接的に述べると、民主主義は結果の「正当性」(justness)よりもプロセスの「正統性」(legitimacy)に重きを置いた政体である。したがって、結果の正当性に多少疑義が生じようと、それはすでに想定済みの脆弱性なのである。

では、プロセスの正統性とは何か。
井上達夫の言葉を借りるならば、共同体の意思決定に反対した人が、それでもなお当該意思決定に服しなければならないことを正当化するもの、である。民主主義は、民意を集約し、反映するシステムであるが、最終的にはどこかの時点で何らかの意思決定が行われる。たとえば消費税増税が実現した場合、増税に反対だった人はなぜ増額された税率のもとで商品を買わないといけないのだろうか。それは、少なくとも意思決定プロセスにおいて彼らの意見も確認され、吟味されたからである。

1-3. 民主主義は革命に血が流れにくい

権威主義的・専制的な共同体にはこのような正統性は存在しない。したがって、ある決定や体制に反対したい人々はストライキや暴動、最終的には革命を起こすしかない。民主主義はこれを抑えるシステムである。
たとえば、アメリカ合衆国において、オバマ政権、さらにはトランプ政権の誕生はある種の革命であった。あれほど大規模な体制変換を行ってもなおアメリカが共同体として機能し続ける理由はプロセスの正統性が担保されているからである。(しかし、2020年の大統領選挙においてはまさにこれを疑問視したトランプ前大統領とそのシンパによって若干の血が流れる異常事態が発生しており、笑えない事態となっている。)

1-4. 集合知が形成されていないのがオワコン

結論から言えば、民主主義はそのシステムとしてオワコンなのではなく、人間が自分自身の認知能力で処理できない情報量と複雑さの中で、無闇矢鱈に意思決定を求められ、しかも100年近く前に作られた微妙なフレームワーク(選挙制度等)のもとで意思決定をした結果、頭のいい人たちだけで意思決定した権威主義国家よりも的はずれなことが起きてきていることがオワコンなのである。

本来、民主主義は、一人の力、一票で何かを変えるシステムではない。(その意味で「あなたの一票で未来は変わる」なるキャッチコピーは欺瞞である。一人の力で変わるのであればプーチンもびっくりの権威主義国家である。)
しかし、個々の意見を集約し、反映した結果、共同体としての集合知を形成しうるのが民主主義という形態であり、それを目指すべきにもかかわらず、原始時代とほぼ変わらない脳を持った人間の情報処理能力と大昔の作られたフレームワークの処理能力の限界によって、壁にぶち当たっているといったところが「オワコンっぽさ」の実態であろう。
とすれば、この情報処理能力やフレームワークを再構築すれば、オワコンっぽさを修正した上で、「プロセスの正統性」を担保しながら、「結果の正当性」を実現できるのではないか

2. 22世紀の民主主義: 無意識データ民主主義

2-1. 民主主義の定義

22世紀の民主主義を構想するにあたって、著者は民主主義の定義から確認している。すなわち民主主義とは、「データの変換」であり、「みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置」である。とすれば、民主主義のデザインとは、「(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム」のデザインとなる。
現段階の各国の民主主義のデザインは、一定年齢に達した一人が一票を有し(これが(1)入力される民意データ)、いずれかの候補者・政党に投票した上で(これが(2)出力される社会的意思決定)、多数決などのルールで当選者を選定する(これが(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム)という極めて原始的なものである。

2-2. 無意識データ民主主義とは

著者が主張する22世紀の民主主義では選挙は行われない。IoTが捉える無数のデータを「(1)入力される民意データ」とし、アルゴリズムが様々な成果指標データ(GDP、失業率、学力達成度、健康寿命、ウェルビーイングなど)を組み合わせた目的関数を最適化するように構築され、それに基づいた意思決定をアルゴリズムが下していく。このシステムでは、政治家は市民の熱狂や怒りを受け止めるマスコットとしてネコに取って代わられるらしい。

人々が何を求め、何を幸福と感じ、公共の利益と信じているのかを、アルゴリズムが探索し、学習し、アウトプットを出力していく。選挙での投票では、人間が意識している意思や目的の達成が追求されるが、このモデルであれば人間が無意識のうちに求めていることまで最適化される。
無数の論点について常時最適解が見出されていき、人は時に多数派、時に少数派を行き来しながら(もはやそんなことは意識すらしなくなる)、下された意思決定を享受する。

2-3. 問題点

2−3−1. テクノクラートの支配
簡単に想像がつくが、このようなシステムではアルゴリズムやモデルを構築する専門集団による支配をどう抑制・牽制するかが重要になる。データセットやアルゴリズムは常にオープンに共有され、検証可能である必要がある。著者もその点には言及している。加えて、不服申立ての手段も必要である。単に検証するのみではシステムを変更するインセンティブが生じないからだ。

2-3-2. 集合知を生み出すデータとアルゴリズムの選択方法
著者の提案するようなシステムは今に主張され始めたものではない。すでにアルゴリズムによる政治的意思決定の研究・分析は英語圏を中心に多く見られ、日本語圏でも『一般意思2.0』(東浩紀)や『なめらかな社会とその敵』(鈴木健)などで構想されてきた内容に近い。
しかし、まだ現時点では定量的に計量・評価可能なデータに偏りがあり、またノイズも無視できない量で存在する(たとえばTwitterとYoutubeとTikTokとInstagramとニコ生のデータで世界を表現できるかを想像すればその粒度の粗さを感じられるだろう)。アルゴリズムも、公平分配理論(資源を公平に分配することを可能にする数理学上の理論)などの研究が進んでいるが、社会的な意思決定に耐えうるほどのモデルは確立できていない。
民意をどうデータとして取得し、解釈し、出力するか。それぞれのフェーズで大幅な技術革新が生じなければ、単にあるプラットフォーム・電子機器上で発生した一部のデータに基づく一部のマイノリティによる民意が可視化されるに過ぎない。ルソー的な表現で言い換えるならそれは、私的な利益を追求しながら日常を生き続ける個々人の特殊意志を、アルゴリズムの力でいかに全体意志(私的利益を追求する個々人の特殊意志の集合)ではなく、一般意志(公共の利益を追求する個々人の意志の集合)として具象化できるか。
その実現のためには「22世紀」まで待たなくてはならないのだろう。

2-3-3. 主体性の喪失(ネコになるのは誰か)
最大の課題は、無意識データ民主主義のもとではネコになるのは政治家ではなく民衆ではないかという点である。日常生活を送るだけでデータが取得され、神の名のつく見えざるアルゴリズムが意思決定を下していく世界で、人々はどのように共同体に政治的主体性を見出していくのか。どのように参画するのか。より直接的には、治者と被治者の自同性(支配する側と支配される側の同一性)をどう担保するのか
別に興味のないものなど参画しなくて良い、というスタンスは正しい。むしろ投票が義務化されていない民主主義国家は現時点で全てそのスタンスである。が、参画したい有権者が参画できる経路が必ずそこに作られなければ、プロセスの正統性が失われ、不服申立てとしての抵抗、血の流れる革命が起きる可能性が高まる。

3. 21.5世紀の民主主義: インプットを変える

プロセスの正統性を担保しながらいかに結果の正当性を追求できるか。著者の提案は十分に成立するし、多くの点でそのような未来が待っていると同意する。実際、コロナ禍においてはスマートフォンの端末データを用いた人流データ、接触データなどが政策の意思決定に用いられており、すでに行政府を筆頭に、民意の入力データの活用は多様になり始めている。

ここからは、民主主義をアップデートするために開発し続けている「JAPAN CHOICE」の開発責任者として、あるいは良質な情報空間の創出を目指すスマートニュースの社員として、過渡期の21.5世紀の民主主義に実現しておくべき社会実装の提案である。

まず、前時代的な一人一票による紙の投票は終了させよう。情報通信技術の発展した世界で100年以上の前の技術に依存する喜劇(いや悲劇か)に終止符を打つ。

個人の選考と社会の望ましい意思決定のあり方を結びつける社会選択理論の発展に伴い、様々な投票システムが研究・提案されている。古くはボルダ方式やコンドルセ勝者、最近ではDivicracy(分人民主主義、前掲『なめらかな社会とその敵』参照)やQuadratic Voting(MicrosoftのGlen WeylやEthereumのVitalik Buterinが提案)などなど、民意を効率的に集約し反映しうる投票方法には枚挙にいとまがない。

著者を含む研究者がさらに「22世紀の民主主義」の研究を進めるために、実験的にこれらの手法によるインプットデータを用いればどのようなアウトプットが出力されるのかをJAPAN CHOICEなどに実装してみよう。過渡期の起業家、アクティビストに求められるのは実証実験の繰り返しなのだから。

なにか書評っぽいものを書こうとなぐり書きをしていたら、いつの間にか著者へのラブレターのようなものになってしまった。最後に、「21.5世紀の民主主義」などと銘打っておきながら、2025年までに行われる衆院選でこれを実装しようと思うと、「21.25世紀の民主主義」くらいにしかならないことに最後の最後で気づきました。釣り記事失礼いたしました。


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結城東輝(とんふぃ)
図書館が無料であるように、自分の記事は無料で全ての方に開放したいと考えています(一部クラウドファンディングのリターン等を除きます)。しかし、価値のある記事だと感じてくださった方が任意でサポートをしてくださることがあり、そのような言論空間があることに頭が上がりません。