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今問われていることーロシアのウクライナ侵略と関連してー

2月24日の未明、世界に悲しいことが起こった。
ロシア軍がウクライナに軍事侵略を開始した。
戦争はウクライナ全土に及び、4日経った現在でも戦闘は収まるどころか、ロシア軍は更に戦力を投入し、拡大の一途を辿っている。
国際社会はロシアに対して、プーチンの資産凍結、世界銀行間決裁システム(SWIFT)から閉め出しなどの経済制裁を始め、国連特別総会を開催して「ロシア非難決議」を採択する方向だ。それに対して、プーチンは核兵器の使用を示唆し、その準備を命令した。今、世界の誰もがこの戦争に無関心ではいられない。

僕は被爆国日本の一人の教師として、戦後日本の教育の出発点である「教え子を再び戦場に送らない」という誓いに基づき、ロシアのウクライナ侵略に対して、断固抗議する。

確かに、ウクライナやその周辺の国々とロシア(旧ソ連)との間には、歴史的にさまざまな確執があることは理解できる。NATOの拡大がロシアに対して脅威であることもわかる。これまでのアメリカ一国主義にもたくさん問題がある。EUも決して一枚岩ではない。
世界にいる70億人の人間一人一人が多様な文化の中で育ち、多様な考え方を持つユニークな存在である。そのような考え方が徐々に広がってきている現代、異質なもの同士の間の問題は話し合いで解決するのが常識になってきている。
そういう意味で、ウクライナがNATOへ参加することを恐れたプーチンが話し合いでなく、武力で解決しようとしたことはどんな理由があろうとも間違っている。
僕は全ての暴力に反対する。

この戦争が始まった頃に、とあるSNSで気になる言説が流れていた。
「ウクライナもNATOに参加したいと言わなかったらよかったのに。ロシアを刺激したウクライナにも問題がある」
この言葉を読んで、僕は発達障害者や精神障害者を批判する人達と同じ視線を感じた。それは権力を持っている側の視点、力を持っている者の視点、「フツウ」と呼ばれる者側の視点だ。
上の言葉は一見、バランスの取れた「大人」の意見に思える。しかし、ウクライナの側から見たらどうだろう。大国ロシアの機嫌を伺いながら、今後も生きていかなくてはならないのか。自分の国の方向を自分で決めることも許されないのか。彼らの国家に主権はないのか。
発達障害や精神障害があるといろんな面で「フツウ」の人とは違う。うまく他人と関われなかったりする。仕事もなかなか上手に捌けなかったりする。でも困っているのも本人で、苦しんでいるのも本人である。彼らに必要なのは、「一人一人の必要性に合わせた特別な支援」なのである。

その一つとして「合理的配慮」(Reasonable accommodation)がある。2006年の国連総会で採択された「障害者の権利に関する条約」で明記された。日本では2013年に成立した「障害者差別解消法」の中で法的に位置づけられている。今その中味を書く余裕はないが、これが現在の国際社会の合意点である。
ただ、僕は「配慮」という日本語訳はあまりよろしくないと思っている。条約正文の「accommodation」に配慮という意味はなく、具体的な調整や助けを表す言葉である。そして「配慮」と言われると、日本語ではどうしても「思いやり」「優しさ」を連想してしまう。この概念はそういう精神的なものではなく、具体的な変更を求めているのである。
上の述べた「権力」や「力」を持ち、「フツウ」だと自認している人は、えてして「優しい支配者」に変貌しやすい。「障害のある人に思いやりを」、それを強調するのが、現代日本の「家父長制度」の表の顔だと僕は考えている。

さて、長くなってしまったが、そろそろ僕がこのnoteで何を書こうとしているかをはっきりさせた方がいいだろう。僕は全ての暴力に反対だ。なぜなら、僕が暴力の元で育って来たからだ。
僕は今で言う「虐待」の家庭環境の中で育ってきた。精神的・身体的な虐待全てを含む虐待、その中で何とか生き抜き、気がつけば50歳半ばになっていた。言わば「虐待サバイバー」だ。そして、この歳になっても、未だにあの時の暴力が僕を苦しめ、僕の生きにくさを生み出していると実感している。
僕が教員生活の最後、そしてその後のライフワークに「特別支援教育」「インクルーシブ教育」を選んだのも、何よりも僕自身が僕らしく生きていくためである。

ようやく本論に入っていけそうである。
よろしければこれからもお読みいただければ幸いである。

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