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【散文過去作】永遠の眼

 そこには永遠と雲とが流れていた。とうにひとは滅び去っている。遥かな高みの梢からはやわらかな葉と葉が擦れあう甘いさやぎが降りそそいで、それを雨のように浴びながらそっと目をひらくものがある。何度となく見たであろう景色を、何度でもまったくあたらしいものとして受けとめているらしい無邪気な目は、まるで晴れあがった青空のように澄み、うすらとした水の膜をまとって、大気の重みと張りあっている。どこかでは地の引力に耐えかねて、細い葉脈のうえを伝い、露が滑りおちていく気配がした。あらゆるものが息をしている。水も、枝も、石も、まなざしも、巨大な循環のなかにほんのひととき、気まぐれのようにそれぞれの座を占めて、かつてはわたしもそこで言葉を紡いでいた。半ばは風鳴りと同じものになりながら、無数の影を生みおとしてきた。地に遍く殖えひろがって、まるで葉むらのように、飛沫のようにざわめく影は永劫にありつづけていくようにも思われた。けれどいまでは、それを耳にするものは誰もいない。誰、と呼びかけられるものもいなくなった。わたしもまた、立ち去った。そうしてすべての認識が朽ちたあとに見ひらかれている眼は、誰の眼でもない。ただ、わずかな空気の揺らめきに感じてまたたいた。遠い草地をのっそりと行き来する獣の気配に振りむいた。数多の生きものたちが繰りかえしてきた仕種をおのずとなぞり、やがて安全な隠れ家の外へと、うしろをかえりみることもなく踏みだしていく。何もかもがいつまでもまあたらしい、輝きの世界へ。
 そして臨終までの日々はあっけなく過ぎて、自分が死ぬことも、死んだということも、ついぞ気がつくことはないまま、再び草地のあいだを縫うように飛ぶ羽虫や、天を指す芒の穂の震えやの姿を陶然と眺めている。
 そこには、無数の歌も流れている。
 もし目を瞑るものがあれば、忘れさられた歌もつかのま、地の底の国から泡のように浮かびあがることもあるかもしれない。わたしもいまは、その昏い死者の国にやはり永遠のものとして安らっている。なにも見ることは叶わない。聞くこともおぼろげで、指や腕がいくつあるのかも定かではなくなっている。わたし、という音か、言葉か、手ざわりか、においか、かたちかだけが確かなもののようで、けれどそれも反響にすぎない。わたしは、わたしだ、とはじまりのない谺が延々と繰りかえされている。わたしは、わたしだ。
 わたしが目をあけたときには、数限りないひとの姿が四方八方から押しよせて、けれど銘々に話しあいながら、燥ぎながら、黙りこみながらも、じっと立ち尽くしたままの此方のことは、巧みに避けて歩いていく。行き交う頭たちの向こうには信号機が点滅している。ゆるやかな窪地のまんなかからは遥かな山々の稜線のかわりに、われさきに天へと伸びゆくようなビルの群がりを仰ぐことができた。木立にも似たその影の下を潜ると、何かとてつもなく大きなものに守られているような心地にもなる。ひとの流れは、ある瞬間を境にまばらになっていく。
 遠くに赤い光を眺めていた。もう夕焼けになるのか、と眺めているうちに静寂が交差点を満たしていた。此処はどこだったろう、と細い吐息を口から零しながら、唸りをたてて走る鉄の車の動きを、ぼんやりと目だけで追いかけている。
 わたしはいま、うまれているのだ。
 そこには永遠と雲とが流れている。
 張りつめた大気のなかを泳ぎだしながら、獣はひとつの歌を、そのからだのすべてで受けとめている。

2020.7
2024.5.19 文学フリマ東京にて発刊『夢見ヶ丘』収録予定

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