言葉の重み
晩秋の道東。
この時期になるといつも思い出す、とある光景がある。
数年前、僕が北海道へ移住する前の話。
僕は今の家の大家さんである桑原さんと近くの森を歩いていた。
桑原さんは25年以上ここで暮らし、馬で森へ入ったり狩猟で森へ入ったりとここの森を知り尽くしていた。
一緒に歩きながら色々なことを教えてもらった。
少し汗ばむくらいの速度で僕たちは歩き続け、時折桑原さんから植物や木のことなどを教えてもらいながら、二人とも最低限の会話で森を歩いていた。
当時関東で暮らしていた僕からしたら、何もかもが新鮮で、森の中を歩くこと自体が楽しく言葉こそ少なかったが心の中では大興奮だった。
何より桑原さんのような自然を知り尽くした人と一緒に山を歩けることが嬉しくて仕方がなかった。
その時期はカラ松の葉が見事に黄色に色づいていて、朝7時頃になると森へゆっくりと朝日が差し込んでいた。
朝日とカラ松の黄色が反射して、まるで森全体が輝いているかのような錯覚を起こすくらいの素晴らしい光景だった。
景色に心奪われながらも、僕たちは目的地であった尾根に向かって歩いていた。
その時、どこからともなく「クワァ、クワァ」という声が遠くから聞こえてきた。
僕と桑原さんはお互いに声の出どころへ耳を澄ませ、空を見上げた。
オオハクチョウの群れが編隊を組んで飛んでいたのだ。
カラ松の木々から覗く青空を、オオハクチョウの群れが通過していった。
人工的な音が一切ない静寂の森の中をオオハクチョウの声だけがコダマしていた。
オオハクチョウが通り過ぎると桑原さんは僕に向かって少しだけ微笑んで
「綺麗だね」
そう一言だけ言ってまた歩き始めた。
僕にはその時の光景がいまだに忘れられず、この時期になるといつもその光景を思い出す。
思えば何てことはない、ごく普通の言葉だ。
だけれど僕にはその「綺麗だね」という言葉が深く心に残っている。
一見すると、特に深い意味のないようなふっと出た言葉。
友人や家族、知人、先生、兄弟などから言われたふとした言葉や場面がなぜか心に残っているというのは誰しも経験があるのではないだろうか。
大事な場面から、くだらない場面まで、でも何故か心に刻み込まれているような、そんなシーン。
僕にとって桑原さんが言った綺麗だねという言葉がまさにそんな場面だった。
桑原さんは僕が今まで知り合った人の中で最も自然と共に暮らしてきた人だった。
狼を飼育し、自身もイエローストーンやアラスカ、モロッコなど世界中を旅しながら狼を調査し、体当たりでここの自然と共に25年以上も暮らしてきた。
そんな自然を知り尽くした桑原さんからこぼれ落ちた「綺麗だね」という言葉には重さがあった。
その言葉の裏側に、桑原さんの人生があるような気がしたのだ。
ただオオハクチョウの群れを見て綺麗だねと言ったわけではなく、ここの自然を見続けた眼差しと実体験がその言葉をさらに意味が深いものにしているように思えた。
物事を捉えたり、感じるのには時間が必要な時がある。
ここで1年半暮らした僕が綺麗だと言う自然と、25年以上暮らしてきた桑原さんが言った綺麗だと言う言葉の重さは、やはり同じではないのだ。
月日を経ることでしか表せないものが確かにあるような気がする。
昨今の世の中はとても物事の進みが早いように感じる。
全ての物やコンテンツが生産から消費までが圧倒的に早い。
情報化の一途で写真も一瞬のインパクトばかりが先行し、ほとんどの写真は長く見れらない。1枚に込めれた意味を探すよりもわかりやすい絶景写真や決定的瞬間を何枚も見せられた方が良いと感じてしまう。
映像も映画は長過ぎて見られないという世代が増え、tiktokを代表とするショート動画が流行っている。
より短く、より早く。
物だけでなく情報も大量生産、大量消費の時代になってしまった。
そこから生まれたものも多いが、きっと失っていったものも多い。
そんな中で、月日を重ねることでしか得られないものの価値を僕はちゃんと感じていたいと思うし、感じられる人でいたいと思う。
そして僕自身も今は説得力がなくても、少しずつ積み上げて、時間をかけてじっくりとここの自然と向き合っていきたいと思う。
特に何かを頑張るわけでもなく、ただ暮らすことでもきっと見えてくるものがあるような気がする。
晩秋の寒気の中、すぐ近くの森から鹿のラッティングコールが聞こえる。
今日も僕はここで生き、ここの自然に耳を傾け、今自分の思いを綴っている。
それだけで良い。
頑張りすぎず、でも止まらず怠けず、ただここで、暮らしていく。
その時間がきっと何か今の時代が失いかけているものを掘り起こしてくれるような、そんな気がしている。
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