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受け取る力

2月も後半へ差し掛かり、3月が見えてきた。
景色はまだまだ冬なのに、気温もマイナスなのに、伸びてきた日と光の入り方が春の気配を感じさせる。

本格的な春はまだ先なのに、日々春へ向かっていっていると感じるだけで寂しいような明るくなるような複雑な気持ちになる。

2年目の冬が少しずつ過ぎていく。

今年の冬は珍しくお客さんが来てくれた。

韓国からきたchoiという青年と僕の後輩である祥平だ。

choiは韓国のドッグトレーナーでSNSを通じて連絡を取り合い、ずっと会いたいと思っていたところ1ヶ月前くらいに突如行きたいとメッセージをくれた。

DMのやり取りでお互いの価値観が近いことは感じていたので僕たちはすぐに仲良くなった。

犬のこと、自然のこと、人生のこと、お互い拙い英語で話しながら自然の中を歩いた。

星を見上げながら、犬たちと散歩をしてお互い腹を割って本音で語り合った夜を僕は一生忘れないと思う。

祥平もいつもふと僕のところに遊びに来てくれる。

特別北海道に強い思いがあるわけでもない、旅が好きなわけでもない彼はそれでもフラッと僕のところに度々遊びに来てくれる。

ベタベタに僕に媚びるわけでもない。

それでも彼はこの2年で2回も北海道へ来てくれた。

祥平はそういう男なのだ。僕は祥平のそんな可愛らしさと自由さをとても気に入っている。

僕の中で数少ない本音を話せる友人だ。


僕がこの人とは深い話ができる、と思う人にはある共通点がある。

それは皆「受け取る力が強い」ということだ。

受け取る力。これはここ数年で僕が強く感じていることなのだけれど、この力が強い人に僕はとっても惹かれてしまう。

受け取る力とはそのまま感受性と訳してもいいかもしれない。

ある事象や起こった出来事から、多くを感じることができる人と僕は一緒にいることがとても楽しい。

例えば、自然を前にした時、受け取る力が強い人というのは自然から多くのものを感じ、自分の中へ取り込もうとする。

何でもない日差し、柔らかい風、雪を踏み締める音、どこまでも続く広がり、昨日はなかった足跡、冬を耐える木や葉の強さ、儚さ。

そういったものを受け取る力が強い人というのはたくさん感じ取ることができる。

逆にその力が弱い人はそんな事に気づきもせず、自分を中心に世界が回っていることが多いような気がする。

以前山でガイドをした人が、体が枝にぶつかって折れてしまった時に木に向かってごめんなさいと謝っていたのを見て、僕は何だか嬉しくなったことがある。

極端かもしれないけれど、そうした感受性というのは必ず人間性にも繋がっていると思う。

これはそのまま僕の写真観にも繋がっていて、僕はあまり能動的に写真を撮りたいと思わなくて、できる限り受動的でありたいと思っている。

写真を撮ることを英語ではtake a pictureと言うが自分の中ではtakeというよりgiveの気持ちの方が強い。

give a pictureと言う方がしっくりくる。

対象を撮りに行く、というよりは自然の中の偶然性に身を任せて自分の感情が流れるままに写真を撮らされたという感覚でいたいと思う。
できているかどうかは別としてね…。


日常生活の中でも、この受け取る力が強い人は飽きることがなく常に新しい発見を続けることができる。

僕の祖母はいつも近所の人が植えた花を見ては、その花の開花状況を嬉しそうに話していた。

家の前が土手だったので、土手に咲いた花のこともよく気にかけていた。

祖母は足が悪く、あまり外に出歩くことができなかった。

それでも祖母は心豊かに暮らしていたと思う。

本当にその人の心持ちで、同じ景色を見ても全然違うものになってしまうのだ。

日々同じことの繰り返しだったり、刺激が少ない日々を過ごすと人間は慣れてしまう。

そうすると目の前の大切なものがどんどん見えなくなっていく。

目の前の世界は光り続けているのに、暗くなっていくのは実は外の光がなくなったからではなくて、自分の心の目が閉じていってしまっているのだと思う。

自分も受け取る力が鈍くならないように、日々小さなことにも幸せを見出したい。そのために、ちゃんと自分の感性と心を正常に保っておくことを忘れないでいたい。

きっと目の前の世界は、自分の心次第で宝物にも塵にも見えてしまうものなんだ。


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