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想像の余白

冬に撮影したフィルムが戻ってきた。

相変わらず下手くそな写真達だ。

だけれど自分がなぜシャッターを切ったのか、その時の情景をありありと思い出せる。



最近、自分の言葉をまとめたり、集中したりするのが昔に比べて苦手になったなと感じる。

文章を読んでみても、昔の方が良い文を書けているようにも思える。(こればかりは美化されているのかもしれないが)

なぜそんなふうに思うのだろうと考えてみて、1つ自分の中で思い当たる仮説ができた。

想像することが減ったからだ。と思う。

人は1日に数万回考え事をすると言われているらしい。

それほど人の頭の中には日々考えや想像が溢れているのだ。

だけれど今は超情報化社会になってしまって、想像することがとても減ったように感じる。

全てが情報として目の前に現れる時、僕たちの想像力は必要なくなる。

あの山の向こうはどうなっているのだろうと想像しても、Googleマップで見たらすぐにどんなものかわかってしまうから、そこに想像の力が波及することがない。

この事があらゆる場面に起こっているのだと思う。

だから外界からの情報を遮断して、目の前にある風景・自分の行動・そして分からないことに対する想像に思いを馳せることは今の時代とても貴重なスキルになっていると思う。

そういう意味において、僕は受け手に想像を任せてくれる媒体がとても好きだ。

写真・文・絵画・音楽などである。

写真の中でも、余白のある写真がとても好きだ。
物理的な余白ではなく、受け手に想像の余白を与えてくれる写真達だ。


「私のこれを見てください」ではなく

「私はこれを見ています。」


という写真が好きだ。

あくまで受け手に想像を促している。

文章もそうだ。

文や言語はそのイメージを受け手に委ねる事ができる。

横断歩道を歩く老人、と書いてもそのイメージは絶対的なものではなく相対的なものとして読者に余白を与えている。

季節はいつなのか、足早に歩いているのか、杖を持っているのか、周りに人はいるのか、右に歩いているのか左に歩いているのか、荷物はあるのか、車がたくさんいるのか、昼なのか夜なのか、その一文からでは伝わらない。

その伝わらない事がとても良い。

僕たちがその文から能動的に何かをイメージしに行くからだ。

昨今のSNSや映像、Youtubeを見ると、「情報」としてのメディアばかりで「表現」としてのメディアはとても少なくなっていっているように感じる。

映像を見ているときやYoutubeを見ているときは大部分が受動的な状態であって、あまり能動的に想像力や思考を働かせることがない気がしている。

全て情報として目の前にあるから、想像する必要がなくなってしまっているのかもしれない。

想像することは、人間に与えられた特権だと思う。

もしかしたら今の時代は自由に思いを馳せる事ができる最後の時代になるかもしれない。

情報に埋もれてしまう毎日だからこそ、日々目の前の何かから自分の想像する時間、思いを馳せる時間を持つ大切さを僕は日々感じている。



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