小林一三像

宝塚の歴史と小林一三の信念①

今回は2008年9月13日に山梨県韮崎市の東京エレクトロン韮崎文化ホールで開催された山梨学講座で石川博氏が講演した「宝塚の歴史と小林一三の信念」を再録してお伝えする。
石川氏は2020年1月に惜しくも亡くなられたのでその追悼の意味で石川氏の小林一三に対する考察を振り返っていただきたい。

【講師】
石川 博(いしかわ ひろし)

1957年(昭和32年)、山梨県甲府市生まれ。慶應義塾大学経済学部・文学部卒業。近世文学専攻。駿台甲府小学校校長や山梨郷土研究会常任理事などを歴任。編事書『南総里見八犬伝』 (角川ソフィア文庫)、『山梨県史』(共著)、山梨県内自治体史誌の編さんに多数携わった。

石川です。よろしくお願いいたします。「宝塚の歴史と小林一三の信念」というテーマでお話ししていきたいと思います。私はもともと宝塚の熱心なフアンではなく、小林一三について本を書いているわけではないのでこの講演をお断りしたのですが、宝塚に限らず他の舞台との比較や小林一三の経済人ではない人物像をとのお話でしたのでお受けしました。

小林一三家系図


まず、小林一三の一族にどのような方がいらっしゃるのか、系図をご覧ください。小林たけよ(竹代、明治3年生まれ)と一三(明治6年生まれ)が姉弟です。小林家には男の子が生まれなかったので婿をとり、それでたけよと一三が生まれますが、一三が生まれた直後、お母さんが亡くなってしまいます。婿に来ていたお父さんは離縁されてしまいます。それでたけよと一三の二人はおじいさんの弟に育てられます。一三が書いた書物を見ますと「二代の孤児」と書かれていまして、一三のお母さんも孤児であったということです。

小林一三(昭和11年) 写真提供:韮崎市

小林家は大変裕福な家でお金に困るということはなく、一三は小学校時代、ガキ大将であったと書いてありました。離放されたお父さんの甚八さんは竜王の丹沢家から婿入りしますが、いったん丹沢家に戻り、改めて田辺家に婿入りします。田辺七六、宗英、加多丸など優れた子どもに恵まれます。田辺七六の息子には山梨県知事や国会議員を務めた田辺国男がいます。田辺宗英は東京電力で仕事をしたり、後楽園スタジアムの経営者を長くしていました。

ちょっとしたエピソードをお話ししますと、小林一三と田辺宗英は二人そろって1968年に野球殿堂入りしています。野球殿堂は日本の野球、優れた野球競技者や野球の発展に貢献した方々を称え、表彰するために1959年に創設されました。小林一三は阪急球団を作っていますし、田辺宗英は後楽園スタジアムを作っています。それから、田辺加多丸は昭和初期に勧銀の理事をしていまして、その後東宝の社長を務めています。一三のお姉さんのたけよは堀内家に嫁ぎますが、たけよのお孫さんにあたるのが東宝の堀内實三さんです。

一三の長男の冨佐雄は一三が亡くなる1年前に亡くなりました。次男の辰郎は松岡家に婿入りし、三男の米三が小林家を継ぐことになります。米三には子どもがいなかったために、松岡家から辰郎の娘を養女とし、三村家から公平さんを婿養子に迎えました。三村家は三菱の大番頭と言われ、公平さんのお兄さんの庸平さんは三菱地所の社長、会長を務められた方です。

小林一三は三井銀行に勤めていました。婿は三菱からもらっていますので、この辺のバランス感覚が一三らしいですね。宝塚で何年か前にヒットした『猛き黄金の国』は、漫画家の本宮ひろ志原作の同名コミックをもとにしてミュージカルにしたてたものです。三菱財閥の基礎を作り、家と経営に命をかけた岩崎彌太郎を主人公にしています。宝塚は三井系統の色が強かったのですが、この辺で三菱の色も入ってきています。

公平さんはもともと宝塚が大好きで、今から20年くらい前にプロ野球の阪急も宝塚も赤字だった時ですが、 「宝塚がかわいい」と言って阪急球団を手放したというエピソードがあります。今でも宝塚で出している「歌劇」という雑誌にほぼ毎月エッセイを書いています。現在の宝塚の理事長は公平さんの息子の公一さんです。それから、松岡家は辰郎の息子功さんが東宝の社長をされていまして、功さんの息子はテニスプレーヤーの松岡修造さんです。松岡修造さんは小林一三のひ孫にあたります。

小林一三には二人の娘さんがいます。そのうちの一人、春子はサントリーの鳥井家に嫁ぎました。夫の鳥井吉太郎は30歳台半ばで亡くなっています。そのことを一三はエッセイの中で、末娘は子どもがまだ幼いのに夫に先立たれてかわいそうだ、というようなことを書いていますが、息子の信一郎さんは立派にサントリーの社長を務められました。

田辺七六の方では、国会議員・知事を長く務めた国男の息子の篤さんは最初サントリーに勤めていました。園さんは英和で長く学園長を務めています。綾子さんは勝沼の雨宮家に嫁ぎます.この雨宮家は有名な「大一葡萄園」の家です。実は夫の雨宮恒之さんのお父さんも田辺七六の妹を嫁にもらっています。
雨宮恒之さんはぶどう園を継がずに東宝に入り、映画やミュージカル等のプロデューサーとして活躍しました。ウルトラマンの円谷プロの取締役も務めています。小林家、田辺家を含めてサントリーや東宝につながりが深いということです。サントリーのディストラリーやワイナリーが山梨にあるのも、そのようなっながりがあるからでしょうか。

次に一三が遺した文化施設はいくつかあります。宝塚や阪急球団はよく取り上げられますが、宝塚市の隣の池田市に池田文庫があります。池田文庫には宝塚や阪急の図書・資料がありますが、その他に歌舞伎の番付や役者絵のコレクションもあります。私は20年位前に小林一三とは無関係に江戸時代の本を見
るために行きました。また、一三の生家の文書類が「布屋文庫」として整理され公開されています。公刊された「小林家文書目録」によってその文書の題名などがわかりますが、江戸時代から明治初期にかけて、小林家は村の中心的存在であったことがうかがえます。

池田文庫の近くに逸翁美術館があります。一三のペンネームというか、晩年名乗っていた「逸翁」をそのまま美術館の名前にしてありまして、 1957年、一三が亡くなった年に開館しています。お茶の道具や与謝蕪村関係の物が多くありまして、重要文化財も15点を数えます。蕪村の「奥の細道絵巻」は芭蕉の『奥
の細道』を絵と文章で書いたものです。それから、その世界では有名な「佐竹本三十六歌仙絵巻」という、三十六歌仙の巻物を36枚に切って、それぞれコレクターに分け与えたものですが、その内の一つを所有しています。蕪村関連の物を中心として、美術品としてより国文学の資料として重要であるということで、国文学の人が資料を整理しまとめて1冊の本を作っています。俳句や文章を文字に起こし国文学関係の研究者に公開しています。また、 10年くらい前にサントリー美術館で「小林一三の眼」という展覧会を行い、その時に主なものが展示されました。

その他に宝塚ファミリーランドを作りました。もともとは宝塚歌劇も宝塚新温泉の出し物の一つとして生まれました。宝塚歌劇より宝塚ファミリーランドの方が先にできたのですが、新設当時は宝塚新温泉と言って大きな施設でした。現在は閉園されています。 小林一三の生家もこちらに移築したのですが、阪神淡路大震災で倒壊しそのままになっています。


東京にもいくつも劇場を作りました。新宿のコマ劇場は一三が最後に作った劇場です。50年経って劇場の使命は終わったということで閉館が予定されています。江東楽天地、映画館だけでなくキャバレーなどいろいろな施設を複合的に開発しようと錦糸町の駅前に巨大なレジャーセンターをオープンします。それが1937年、つまり戦前です。戦後には馬券場や温泉を開発します。
その施設が古くなったので1981年頃再開発します。その時、商業施設は西武系の西友が入っています。阪急ではないのです。現在は明確にここからここまでが楽天地という区画はありませんが、錦糸町の駅前一帯は、一三が企画したレジャーセンターになっています。


阪急ブレーブスを創設しそれに伴い西宮球場を作りました。西宮球場は数年前に閉鎖されました。 1915年に豊中グランドで、第1回全国中学校優勝野球大会を開いています。朝日新聞とタイアップして全国の中学生を集めようと開きますが2年間だけで、 3回目から阪神系の鳴尾に移ります。第10回日から甲
子園に移るのですが、甲子園で行われている高校野球は、最初は阪急だったのです。

宝塚の歴史と小林一三の信念②へ続く

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