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もう3学期なのに、息子がクラスメイトの顔と名前を覚えていなかった件。

先日、幼稚園で発表会があった。

息子のクラスは「十二支のはじまり」という劇をして、息子はひつじ役だった。年少さんのときは発表会の練習が嫌すぎて幼稚園に行きたがらないほどだったけれど、今年は「発表会の練習、たのしい!」とよく言っていた。

息子のイキイキとした姿を想像しながら、いざ発表会を見に行ったのだけれど。

あらまあびっくり、舞台に立つ息子の顔はこわばり、無表情。無表情のままセリフを言い、無表情のまま歌を歌い、無表情のまま踊っていた。そして無表情のまま、腰の位置あたりで遠慮がちに私に手をふった。その様子がおもしろくて、真剣に劇を鑑賞するふりをしながら、心の中でクスッと笑ってしまった。息子の緊張した姿ってなかなか見られないから、なんだか新鮮だった。



「りんりん、がんばってたなぁ!おつかれ!緊張した?」


劇が終わったあと、息子に聞いてみた。


「めーっちゃ緊張したわ・・・疲れた・・・」


案の定、すごく緊張したようだった。人前に立つのが大好きな遺伝子は、母ちゃんも父ちゃんもおそらく持ち合わせていないので、この状況に何の違和感もない。


本番は緊張して楽しめなくても、練習が楽しかったのならいいよね。クラスのみんなとワイワイ練習したり準備したりするのが楽しかったのかな。なにより、超マイペースで1人で遊ぶことも多かった息子が、みんなで劇を作り上げる楽しさを知れたことはよかったよね、と思った。




ビデオを撮ったので、家に帰ったあと家族3人でビデオ鑑賞をした。

今年はイベントが少なかったこともあり、息子のクラスメイトの顔と名前がなかなか一致しない。見たことのない子だっていた。


「母ちゃんさ、この子見たことないわ。何ていう名前?」

ビデオの中で動いているクラスメイトの女の子を指差しながら、何気なく息子に聞いてみると、驚きの返事が返ってきた。


「知らないよ。」



え!?同じクラスだよね?しかももう3学期。1年間、同じ教室で過ごしてきたはず。そして、一緒に劇の練習をしてきたはず。



「顔は知ってる?」

「知らないよ。」


名前が一致しないだけかと思ったけれど、顔も知らないようだった。


よく一緒に遊んでいるのであろう友達の姿がテレビにうつると、「○○くんだ!」「○○ちゃんだ!」とちゃんと名前も顔も覚えている。

名前や顔が覚えられないわけではなさそうだ。




ビデオを見終わって、けっきょく名前も顔もわからない子が何人かいた。


息子は1年間、その子たちに意識を向けたことがなかったのだろうか。同じ教室で1年間過ごしてきて、1度も"意識しない"ということは可能なんだろうかと考えてみると、なかなか難しいことのように感じる。


「クラスメイトの顔と名前は全員覚えないといけない」なんて決まりはないのだけれど。全員と仲良くしなければならないなんて決まりもないのだけれど。同じ場所に毎日いるのに意識を向けずにいられることが、私にとっては不思議で不思議でたまらなかった。




私たちの周りには、無限にも思える物や人が存在している。

1日のうちに意識できる物や人は、確かに限られている。一生のうちに存在を知ることのできる物や人だって、限られている。


「意識しない」ということは、その人にとっては「存在していない」ということと同じだ。


そう考えると、30人のクラスメイトが同じ教室にいたとしても、一人一人が違う世界を生きているのかもしれない。ある子にとっては仲良しのAくんの存在が大きく見えていて、ある子にとっては大好きなBちゃんの存在が大きく見えている。ある子にとっては壁にかざっているCちゃんの絵がまるで浮き出ているかのように見えているかもしれないし、ある子にとってはDくんのお道具箱のキャラクターがいつも目に入っているかもしれない。


小学生のときに、好きになった男の子をいつも目で追っていたのを思い出す。そこにたくさんの人がいるはずなのに、なぜかその男の子だけが鮮やかに見える。それが不思議だった。逆に、あまりしゃべったことのない子や仲良くない子は、確かにその場所にはいるのだけれど、色が薄く見える。だからといって、息子のように「知らない」ということはなかったけれど。



意識を向ける方向によって、見える世界がちがう。

同じ場所にいたとしても、みんな違う世界を生きているような気がした。



息子が顔や名前を知らないAちゃんだって、だれかにとっては中心人物であり、だれかにとっての"大切な人"である。私にとって大切でかけがえのない存在である息子だって、だれかにとっては「どうでもいい存在」だったり「知らない存在」だったりする。




でも例えば、息子とAちゃんが今後たまたま交わることがあったとして。楽しく遊んじゃったりなんかして。

息子がAちゃんの存在を知る。

息子が教室の中でAちゃんのことを意識するようになる。

そうしたら、息子の見える世界が少し広がる。そして、少し変化する。

今までと同じ教室にいるはずなのに。






私も今いるこの場所で、世界を広げていきたいな。



ふと、そう思った。



手始めに・・・


1番近くにいる父ちゃんの素敵なところに意識を向けてみよう。

一緒にいることが当たり前になると"この人の素敵なところ"なんて、わざわざ意識しなくなる。そして、見えなくなるときだってある。でも父ちゃんには素敵なところがいっぱいある。だから結婚した。



苦手なあの人の素敵なところに意識を向けてみよう。

私に見えているあの人が「すべて」じゃない。私が意識を向けている部分が"苦手"なだけなのかもしれない。きっと素敵なところだってたくさんある。




少しマンネリしている毎日の中で、"おもしろいこと"や"おもしろい人"を探してみよう。

おもしろいことはないかなぁ、おもしろい人はいないかなぁ、と意識をして探してみれば、見えていなかった"おもしろさ"がきっと見つかる。目の前にいる人の"おもしろさ"に気づけるかもしれない。



意識を向けているから、存在する。

意識を向けていないから、存在していないように感じる。


何に意識を向けて、何に意識を向けないかは、ある程度自分で決められるのなら、私はどんなことに意識を向けて、どんな世界で生きていきたいだろう。


息子がクラスメイトの顔と名前を覚えていなかった件から、そんなことに思いを馳せた。

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