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ひ孫に嫌われているけれど、それが何か?

私のおばあちゃん(78歳)は、私の息子(4歳)に、あからさまに嫌われていた。

息子からみると
「ひいおばあちゃんが嫌い」ということだ。


理由はよくわからない。
「好きな子に意地悪したくなる」という感じで、変なちょっかいばかり出すからだろうか。


おばあちゃんが近くにやってくると「キライー!!!」「あっち行ってー!!!」とあからさまに拒絶した。

幼い子供は「相手の気持ちを考えて言葉を出す」という技術はなく、頭と口がダイレクトにつながっている。横にいる私の方が気を使ってしまうシチュエーションである。


そんなとき私は
チラッとおばあちゃんの顔を見てしまう。

悲しい顔をしていないかな。
さすがに「キライ」って言われたら
落ち込むよな。

そんな私の気遣いは全く必要なかったようで
おばあちゃんはびっくりするほど
気にしていないようだった。

はじめのうちは「本当は悲しいけれど、顔に出さないようにしているのかも」と思ったけれど、本当の本当に気にしていないみたいなのだ。  


「嫌われたら、距離を置こう」

普通の大人は、おそらくそう考える。


でもおばあちゃんは違った。

「それが何か?」と言わんばかりに
息子にどんなに拒絶されようと
チョケながら笑いながら
どんどん距離をつめていく。

どんどん話しかけて
どんどん食べ物を与え
どんどん近寄っていく。


この間、4歳になった息子がついに
「おばあちゃん好きになった。ソーメン作ってくれるから。」と口にした。

おばあちゃんの勝利。

おばあちゃんは
息子の大好物のソーメンを
2週間に1回会うたびに
せっせとゆがくことで
息子の胃袋をつかんだのだ。


息子はあんなに拒絶していた
ひいおばあちゃんのことを
「大好き」まではいかずとも
「好き」になったのだ。


でも、おばあちゃんにとっては
そんなことはどうでもいいようだった。

今までと特に何も変わらず

どんどん話しかけて
どんどん食べ物を与え
どんどん近寄り続けている。



息子がおばあちゃんを「嫌い」から「好き」になっていく過程を目の当たりにして、しかも好きになった理由が「ソーメン」だったこともあって、案外私たちは簡単に人のことを好きになったり嫌いになったりするのかもしれないな、なんて思った。

その人が嫌いだったのに好きになったり
その人が好きだったのが嫌いになったり
その人の○○な部分が嫌いだったけれど
だんだん気にならなくなってきたり
その人の○○な部分が好きだったけれど
今はその部分にイライラしたり。


「好き」と「嫌い」は
私たちの心のようにコロコロ変化して
とっても曖昧なものなのかもしれない。




そしてもう一つ。

おばあちゃんはおじいちゃんに
「ほんま嫌いやわ!」
という言葉をよく投げかける。(笑)

その時おじいちゃんは
息子に「嫌い」と言われたときのおばあちゃんのように、アハハと笑っている。

私が幼い頃は「そんなことを言ったらおじいちゃんがかわいそうだ」と思っていたけれど、 

私は2人を長い間観察してきて
「嫌い」という言葉を使っていても
その「嫌い」はそんな深刻なものではないことを知っている。


おばあちゃんは毎日
おじいちゃんにお弁当を作っていて

休日になると
2人でおしゃべりしながら
お茶したりランチしたりして

憎まれ口を叩き合っていても
2人とも顔はなんとなくやわらかいということを、知っているからだ。



言葉はもちろん大切だけれど
言葉以上に確かなものを、
この目で見てきたような気がする。


好きで好きで仕方がないから一緒にいる、というのももちろん素敵だけれど、

そばにいるから、きっと縁のある人なんだと信じ切っていて、その中で精一杯できることをやっている。楽しんでいる。

長年いろんなことを乗り越えてきたからこその、そんな穏やかさを2人を見て感じる。




そんな2つのエピソードを合わせると、
「自分のやったことが返ってくる」という言葉が頭に浮かぶ。


おじいちゃんに「嫌い」っていうから、息子に「嫌い」って言われるんじゃない?ちょっとはおじいちゃんの気持ちがわかった?

そんなセリフが頭によぎったけれど、おばあちゃんは息子に「嫌い」と言われても平気だし、おじいちゃんはおばあちゃんに「嫌い」と言われても平気なのであれば、私がそんなことを言う必要が全くない。



「やさしさ」ってなんだろう?って
考えていたら

なぜか、そんなおばあちゃんのことが
頭に浮かんできた。


もっともっとわかりやすい「やさしさ」が
日常生活にはたくさん転がっているのに、どうして「嫌い」という言葉を言ったり言われたりしているおばあちゃんのことを思い浮かべてしまうんだろう。




おばあちゃんを見ていると
「その人が好き・嫌い」を超えて

「人間が好き。」
「人間に興味がある。」

というようなものを感じる。



人間に興味があって
人間と関わって過ごすことが
楽しくて楽しくて仕方がなくて

「好き」とか「嫌い」は
その楽しい営みの中のスパイスでしかない。


嫌ったり嫌われたり
悪口を言ったり言われたり

私なら「イヤだな」と感じることさえも
「それもまた楽し」と遊んでいるように
見える。 


「人間が好きだ」という根っこがあるから
おばあちゃんが誰かの悪口を言っても
なんだかサラッとライトな感じで
ジメッとした重たさを感じない。

それは、その言葉に、
(ほんと人間っておもしろいよね)
というニュアンスが含まれているからなのかもしれない。



だれかに何かをもらったときや
手伝ってもらったときや
助けてもらったときに

「家族なんだから当然よ!」とか
「私とあなたの仲じゃない!」とか
「同期として当たり前だよ!」とか
「友達だからさ!」
とかいう言葉を使うように

「同じ人間同士じゃない♪」

というおばあちゃんの声が
聞こえてくるような気がする。



ただ人間が好きで、相手が自分のことを好きであろうとなかろうと、自分が相手を好きであろうとなかろうと、関わらずにはいられない。困っていればとっさに手伝いたくなる。助けたくなる。

そんなような、相手からの見返りを求めない軽やかな雰囲気に、私は本当の「やさしさ」を感じているのかもしれない。



やさしくされたいからやさしくする。

やさしい人だと思われたいから
やさしくする。

やさしくすることで自分に得があるから
やさしくする。

その人をコントロールするために
やさしくする。


意地悪されるよりはいいけれど
その類のやさしさは
なんとなくベトッとしていて重たい感じがするものだ。


でもそんな「やさしさ」を演じたり、
だれかのことを、「好き」やら「嫌い」やらゴチャゴチャ言ったり言われたりしている私たちを

まるっと平等に、
ただ明るく照らしてくれている太陽のように


私たちの底には、好き嫌いをこえて
「人間が好きだ」「与えたい」という根っこが備わっているような気がする。



長く長く生きてきて
自分なりに花を咲かせたり
自分のことをやりきったりした
おばあちゃんやおじいちゃんたちは

まだまだ自分と自分の子供に精一杯な私に、

だれかの言葉やふるまいに
いちいち反応してしまう未熟な私に、

そんな根っこを教えてくれる。




この間、息子とケンカして
「母ちゃん、嫌い!」と言われて
瞬間的に頭に血がのぼってしまった。

「母ちゃんも嫌いだもん!」という
喉までやってきていた言葉を
グッと飲み込んで、

プイッとふて寝した。

朝起きて冷静になったときに
「あなたが母ちゃんのこと嫌いでも、母ちゃんはあなたのこと大好きだよって言いたかったな。」なんて思いながら

またおばあちゃんの顔を思い浮かべた。



今はとっても未熟な私だけれど、きっとおばあちゃんみたいなおばあちゃんに近づいていっている。生きれば生きるほどに。


根拠は全くないけれど、そんなふうに思った。

未熟な自分にやさしくしてあげると、なんだか心がホッと温まって、今日も楽しもうという気持ちが湧いてくるような気がした。









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