息子と見つめ合うと涙腺がゆるむ理由。〜「お母さんの1番」になりたい子供たち〜
「母ちゃんの目に、ぼくがうつってる。」
鼻と鼻がくっつきそうなくらいに、息子は私に顔を近づけてそう言った。
ふと息子の黒目を見ると、そりゃあたりまえなんだけれど、私がうつっていた。
「りんりんの目にも、母ちゃんがうつってる。」
私がそう言うと「え?なんで?」と息子は驚いていた。
「今みているものが黒目にうつるんだよ。鏡みたいに。」
「じゃあ、ぼくは母ちゃんをみていて、母ちゃんはぼくをみてるんだね。」
息子は本当の本当にあたりまえのことを言った。でもその言葉をきいて、なぜか涙腺がゆるんでしまった。どうしてだろう?
息子の瞳には私だけがうつっていて
私の瞳には息子だけがうつっている。
お母さんの瞳を独り占めできるのは、一人っ子の特権なのかもしれない。
そして、子供の瞳を独り占めできるのは、すべてのお母さんの特権なんだと思う。
一人っ子であっても、兄弟が何人いても、きっと子供の瞳は、いつもお母さんの姿でいっぱいなんだと思うから。
私は双子だから、
いつもお母さんの瞳には、
私と弟が同時にうつっていた。
そしてその弟は、かわいくて、おもしろくて、世話の焼ける子供だった。私はあまり手がかからなかったと、お母さんはよく言っていた。
お母さんの瞳にうつる私と弟の時間を比べたとしたら、きっと私の方がだいぶ少ないんだろうな。さみしいな。
幼いときからジワリジワリと感じていたその気持ちは、ふだんはすっかり忘れているのだけれど、私の人生のいろんな場面でチラリチラリと姿をあらわした。
「だれかの1番になりたい」
「なにか得意なことで1番になりたい」
当時は理由がわからなかったけれど、本当につい数年前まではその想いに取り憑かれているみたいだった。
お母さんの1番になれないのなら、だれかにとっての1番になりたい。家以外の場所でもいいから、何かで1番になりたい。
だから、私のことを1番に想ってくれる誰かをいつも必死に探していたような気がするし、1番になれる「何か」をいつも必死に探していたような気がする。
その根っこにあるのは「お母さんの1番になりたい」というシンプルな気持ちなのだけれど。それに気づいたのは本当に大人になってからで、それまでの人生は「1番になるため」に焦って焦って生きてきたような感覚がある。
「だれかを愛するのに、順位なんてないんだよ」
そのことを私に教えてくれたのは、びっくりすることに、2匹の小さな猫たちだった。
ひょんなことから、保護猫2匹を飼う流れになって、コメとムギは新婚のわが家にやってきた。
私は動物を飼ったことがなかったので、もうメロメロだった。いつも視線がコメとムギに向いてしまう。可愛くて可愛くて仕方がない。
コメとムギは兄弟だけれど、ぜんぜん性格がちがった。
白黒のコメは、なんだかやさしい感じ。そしてなんだか表情とか鳴き声とか動きとかがおもしろくて、よく笑かしてくれる。
茶トラのムギは、とにかく甘えっこ。めちゃくちゃかわいい顔をしている。おもしろいというよりは「かわいいどころ」という感じだ。
私はなぜかこの2匹が、
自分と弟に重なって見えてしまった。
同時に「あ!お母さんの瞳にはこんなかんじで私と弟がうつっていたのかもしれないな」と思うと、私の心の奥底にひそんでいた「1番になりたい」という気持ちが少しずつ少しずつ癒やされていくような気がした。
性格のちがう2人や2匹。
するとやっぱり、目立つ方と目立たない方がいて、お笑い担当と聞く担当がいて。
でも目立つという理由で、笑かしてくれるという理由で、好きの順位が決まるわけではないのだ。
少なくとも私は、コメもムギも同じだけ大切で大事で大好きだ。そこに上も下もなくて、ただ個性があるな、と感じるだけ。
もしお母さんもこんな気持ちだったのだとしたら。私はお母さんにとっての1番で、同じように弟もお母さんにとっての1番なのだとしたら。
もう私はだれかの1番になる必要はないし、もうなにかで1番になる必要もないな。
そもそもすべてにおいて、「順位」なんて本当はないんだと思う。1人1人ちがいすぎるくらいにちがうのに、何を基準に比べるんだろう?
ふと、そう気づいた。
そこからちょっとずつちょっとずつ「生きやすく」なったような気がするから、私にとってコメとムギはとても大きな大きな存在だ。
それでもやっぱり。
息子の瞳いっぱいに映る「自分の姿」を見ると、こみあげてくるものがある。
そして、「一人っ子でもいいかな」と私が感じている根っこの部分には、「私の瞳には息子1人だけをうつしてあげたい」という気持ちがあるんだと思う。
「お母さんにとっての1番は、
まちがいなく自分だ!」
息子には何の疑いもなく、そう感じていてほしいなと思ってしまう。
私の「1番になりたい病」は癒やされたのか、癒やされていないのか。
果たして完治する病なのか、だましだまし一生付き合っていく病なのか。
それはわからないけれど、「お母さんの1番になりたかった」というシンプルな気持ちにただ気づいてあげることができていれば、それでいいんだと思う。
大人になって複雑になったように感じる、
いろんな気持ちたち。
その根っこに気づくことができていれば、それらの気持ちともうまく付き合っていける気がする。
愛おしい息子と、愛おしい旦那さんと、愛おしいコメとムギ。愛おしい家族や親戚、愛おしい友達や仲間。
本当は「愛おしい」を比べることなんてできない。でも、比べることができるんだと勘違いして生きてきた私。
そんな昔の私さえも「愛おしい」と今は思えていて、必死に1番になろうとしなくなった私は今とても生きやすい。
「母ちゃんの目に、ぼくがうつってる。」
息子とラブラブしていると、
息子はよくその言葉を私に投げかける。
そのたびに涙腺がゆるんでちょっぴり困っているということや、その根っこには私だけの物語があるんだということを、きっと息子は一生知らずにいるのだろう。
息子の目を通り越して、息子の瞳にうつる自分の姿が見えるほどに、近い近い距離で見つめ合う。
照れることもなくそんなことができるのは、きっとあと数年なんだと思う。
自分の姿が映っている、私の茶色い瞳。
その瞳の心強さが、息子の中にしっかりと根付くようにとただ願いながら、私は今日も息子を見つめている。