豊かな雨宿り〜今私にできること〜
息子と2人で過ごすゴールデンウィーク3日目。
お弁当をもって、近所の公園に行った。
割と大きな公園で、遊具あり、広場あり、池あり、森ありで、息子も私も大好きな公園。
結局朝10時から夕方4時頃までのんびり居座った。
そろそろ帰ろうかなと思っていた3時半くらいに、急に雨が降ってきた。
雨なんて頭にも浮かばないくらいのいい天気だったから予想外で、それは私たちだけじゃなくて公園の中にいるすべての人たちがそうだったと思う。
雨がポツポツと降り出した瞬間、「いそいで帰ろ〜!」とか「バイバーイ!」とかいろんな声がザワザワ聞こえてきて、一定数の人たちは「家に帰る」という選択をしていた。
そして一定数の人たちは「雨宿り」を選択した。広い公園の中でバラバラに散らばって遊んでいた人たちが、一斉に屋根のあるところにギュッと集まっていく。
私と息子もとっさに「雨宿り」を選んで、その屋根の下に逃げ込んだ。
屋根の下が、人でいっぱいになってしまった。
満員電車とまでは言わないけれど、わりと「密」だ。とはいっても、誰かを雨の中へ追い出すわけにもいかない。
私と息子はベンチに腰掛ける。いつもおしゃべりな息子の口数がなぜか少ない。さすがに5時間以上も外で遊んで疲れたのか。ボンヤリ公園を眺めている息子の横で私は、屋根の下にいる人たちをボンヤリ眺めた。
知らない人がわりと近くに、わりとたくさんいるシチュエーションは久しぶりだなと思った。
水蒸気みたいに、できるだけ離れてユラユラ散らばって公園で遊んでいた私たちが、氷みたいにギュッと集まって固まったみたい。
そんなどうでもいいことをボンヤリと想像した。
子連れ家族もいたし、中学生や高校生の子たちもいた。屋根の下に集まっていても、家族同士、友達同士のかたまりとかたまりの間は自然と距離が空いているのが今のご時世っぽい。
楽しそうにおしゃべりする親子、スマホを黙々といじる子たち、動画を見てケラケラ笑っている子たち、ひそひそと恋バナをしている女の子たち。
みんなそれなりに楽しそうだ。
「母ちゃん、雨雲は黒いはずなのに、今日は黒くないねぇ。あ!あの雲、ワニみたい。」
静かだった息子もしゃべりだした。
その空間は、なんだかすごく豊かだった。
雨が急に降ってきて、みんなそれぞれがその時楽しく遊んでいたことを辞めて、屋根の下に集まったはずなのに。遊べる場所を制限されている状態だし、いつその雨がやむのか誰にもわからないはずなのに。
この屋根の下で、私たちは今楽しめることを見つけて、それなりに楽しんで過ごしている。
その感じが私には、
今の日本と重なって見えた。
外に外に刺激を求めて散らばっていた日本の人たちが、家族単位でギュッと集まって家で過ごしている。
はじめは急に雨が降ってきて焦ったり戸惑ったり嘆いたり、いつ雨が止むのかが気になって気になって仕方がなかったけれど、その状態が長く続いてだんだんと、みんなが今いる場所での「豊かさ」をじわじわと見つけはじめているような気がするのだ。
それは今まで「豊かさ」だと感じていたものとはなんだか種類がちがうのかもしれない。
キャー!と心が踊ったり、ドキドキして鼓動が早くなったり、テンションが上がってはしゃいだり、新しい場所や新しい出会いや新しい刺激にワクワクしたり。そんな瞬間は、人と距離を保ち、行動範囲を制限されている今、以前よりも少なくなったけれど。
今自分の近くにいる馴染みの人たちと、安心できる場所で「生活を営む」という、当たり前だけれどおろそかにしがちな「豊かさの根っこ」のようなものを、ハッと思い出す瞬間が増えたような気がする。
雨が降っている間はもしかしたら、「自分の戻る場所」にあふれている「豊かさ」を見つめ直す時間なのかもしれないなとも思った。
雨は10分くらいで少しずつ小ぶりになって、そのあとすぐにまたお日様がキラキラと公園を照らした。
屋根の下にいた人たちが、またユラユラと公園へ散らばって、自由にあそびはじめた。
雨が止んだあとの公園は、
雨が降る前よりもキラキラ輝いて見えたし、
そこで遊ぶ人たちの顔が
雨の降る前よりも楽しそうに見えたのは
私の気のせいかもしれないけれど。
有名でもない、影響力もない、お医者さんでもない、そんな私に今できることは、やまない雨はないのだと希望を持っていることと、自分の周りにある豊かさをじんわり噛みしめながら、近くにいてくれる人たちと精一杯楽しく過ごすことしかないよね。
そんなことを思いながら、息子を自転車に乗せて、ペダルをこぎはじめる両足にグッと力を入れた。
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