
5歳息子と初めて「花金」を楽しんだ金曜日の話。
今の若い人たちがこの言葉を使うのかどうかはわからないけれど。
5歳の息子と、はじめて"花金"っぽい夜を過ごしたので、その日のことを書こうと思う。
「今日は飲み会やから、夜ごはんはいらないよ。」
父ちゃんの口から久しぶりにこの言葉を聞いたからハッとした。この言葉を聞くと、ちょっとだけワクッとする。たくさん食べる父ちゃんがいないということは、夜ごはんの手抜きができるのだ。
父ちゃんが夜ごはんのいらない日は、1年以上ぶりだろうか。それよりも前は、1ヶ月に1〜2回は飲み会があった。
当時はまだ2〜3歳だった、しかも少食の息子と2人きりの夜ごはんは、たいがい納豆ごはん&お味噌汁で十分だった。家では食べられないような何かおいしいものを食べたいというよりも、「ゆっくりしたい」という気持ちの方が強かった当時は、私も息子と一緒に納豆ごはん&お味噌汁で十分だった。
もちろん、「父ちゃんもおいしいもの食べていることだし、私も外食したいな」という気持ちが湧いてくることもあったけれど、息子は外食すると必ずこじれる子だった。
せっかく外食してもすぐ帰りたがるので、ごはんを流し込む感じになってしまう。
そしてなぜか息子は外食中にウンチをもよおすことが多かった。もうほとんどトイレでできるようになっていたのに、なぜかその日に限って漏らしてしまったり、時間制限のあるバイキング中に「ウンチでそう!」と言われてくやしい思いをしたこともある。なによりもウンチを処理したあとは、食欲が減ってしまう。
息子と外食をするといつも「損をした」気分になってしまうことが多かったので、それならばお家で納豆ごはんをのんびり食べたほうが幸せだったのだ。
でも5歳をすぎたあたりから、急に外食がしやすくなった。ごはんを食べたり話したりする1〜2時間、座っていられるようになったのだ。
仕事からの帰り道、「今日の夜ごはんはどうしようかな」と考えていたら、もちろん真っ先に納豆ごはんが浮かんできたけれど。
どこからともなく、フワッと餃子のニオイがただよってきた。どこかのお店からのニオイなのか、どこかのご家庭が餃子を焼いているニオイなのかはわからなかったけれど、餃子が無性に食べたくなってしまった。
でも、今日私が餃子を家で焼くわけにはいかない。父ちゃんが飲み会の日は、私の定休日なのだ。
近所で餃子を食べるなら、王将さん1択だ。
「王将、挑戦してみようかな。」
そう腹をくくって、息子を幼稚園に迎えにいった。
6時頃、幼稚園に到着すると、もう真っ暗だった。園に入ると、数人のお母さんたちと数人の子どもたちが、なにやら園庭で空を見上げていた。
「母ちゃん!今日"げっしょく"やって!」
息子が私のもとに走ってきた。
げっしょく?
あ、"月食"か!
みんなが群がっているところに走っていって、私も空を見上げてみた。月は三日月よりももっと細い感じになっていて、今にも消えてしまいそうだった。
「げっしょくって何?」
「月食?母ちゃんも生まれてはじめて見たわ。母ちゃんもよくわかんない。三日月みたいに見えるよね。」
そんな言葉を交わしながら、いっしょに空を見上げた。
「今日はなんと!外でごはんを食べて帰りまーす!」
息子と自転車に乗る準備をしているとき、そう伝えた。
「やったー!でも父ちゃんは?いっしょに来る?」
「父ちゃんは会社の人と飲み会なんだって。」
「ノミカイって何?」
「会社の人と、お酒飲んだり夜ごはん食べてから帰る日ってことやで。父ちゃんもおいしいもの食べてるから、母ちゃんとりんりんもおいしいもの食べて帰ろうぜ。」
「わーい!今日は特別やな!」
「特別や!母ちゃんさ、餃子食べたい!餃子屋さん行ってもいい?ラーメンとか天津飯とかもあるで。」
「天津飯にするー!」
無事に息子の了承を得て、王将に向かった。
そこから息子のテンションがMAXまで上がっていった。まず声がいつもの2倍くらいに大きい。そして歌い出す。叫び出す。
まるで酔っ払っているみたいだ。
でも真っ暗な夜空の下、息子を自転車に乗せて王将に向かっていると、なんだか私まで妙にワクワクしてきて。息子が何か言うたびに、息子が自作の歌を歌い出すたびに、息子がよくわからない音をシャウトするたびに、ゲラゲラと笑った。
どこからどう見ても、酔っ払っている親子だ。お酒なんて飲めるはずがないのに。
王将に着くと、座敷に案内してもらえた。
私がヨイショと座ると、息子もチョコンと私の隣に座った。6人くらいは座れそうな大きなテーブルを、まるでカウンター席みたいに使う。少しでもくっついていたくて仕方がなくて、テーブル席なのに隣同士に座ってしまう初々しいカップルみたいだな、と思った。
息子はご希望通り"天津飯のお子様ランチ"を頼んで、私は餃子とチャーハンの定食を頼んだ。
あいかわらずテンションの高い息子。ついには座敷なのをいいことに、踊り出してしまった。店内はすごく広くて、そして運良く周りに人が座っていなかったので、そのまま踊らせておいた。
ごはんがやってくると、2人で肩を並べて餃子と天津飯を食べた。
息子のおしゃべりは止まらない。
天津飯はどうやって作るのかとか、
卵の中にはニワトリの赤ちゃんが入っているんだとか、食べたらかわいそうだけど食べないと僕は生きられないから「ありがとう」って言って食べるんだよ、とか、
餃子はどうやって作るのかとか、
餃子の中のお肉は誰のお肉なのかとか、食べたらかわいそうだけど食べないと母ちゃんも生きられないから「ありがとう」って言って食べないとダメだよ、とか、
チャーハンはどうやって作るのかとか、お店の人は夜なのに働いてかわいそうだとか、なんで働いているの?とか。
息子は見えるものすべてを話のタネして、永遠に会話がとぎれない。
そして天津飯はなかなか減っていかない。
ひたすら2人でおしゃべりし続け、けっきょく最後には冷めた天津飯を私が何とか口に運んだ。そろそろ店を出ようかと時計を見ると、もうすぐ8時だということに気がついた。
「もう8時やで。りんりん、ねむくない?」
「ねむくない!母ちゃん、今日は特別でたのしかったね。また父ちゃんがノミカイの日は内緒でオーショーいこうね。」
息子が"ノミカイ"とか"オーショー"とか覚えたての言葉を使っているのがおもしろくてクスッと笑った。
「別に内緒じゃないで。父ちゃんだっておいしいもの食べてるんだから、別にずるくもないし。」
「それじゃあ、正々堂々とまたオーショーいこうね!」
「うん!正々堂々とオーショーいこう!」
"正々堂々"なんて言葉、どこで覚えたんだろう。使い方もおおよそ合っている。
「あ!月が丸くなりそう!」
自転車をこいで家に帰る途中、息子がそう言った。王将に向かうときには三日月よりもさらに細い感じだった月が、王将を出るときにはほぼ満月になっていた。
ほんの数時間のうちに、三日月と満月の両方を見られるなんて。
"私と息子のお腹の満たされ具合が、まるで夜空に浮かんでいるみたいじゃないか。"
そんなオシャレな表現がポンッと頭の中に浮かんできて、満たされていたお腹と心がさらに満たされていくのを感じた。
「あしたは幼稚園やすみだからサイコー!ぼく、母ちゃんのことだいだいだいだいだーいすき!」
満月に届きそうなくらいの声で、幼稚園のない明日を愛でたあとに、なぜか私へのラブシャウトも届く。
ああ、なんて"花金"なんだろう。
息子と夜の街で
普通に王将に行って
普通に会話して。
そんな楽しい日がやって来るなんて。
そんな日がやって来ることを想像できないくらいに、しんどい日々があったけれど。
1週間がんばって仕事をしたあとのゴハンやお酒が、異様においしいように、
すごく大変な子育ての数年間を経て、なんだかひと仕事終えたあとの"ごほうび"のような息子との時間が最近増えた。
ほんの最近までは、息子と離れて1人でゆっくりしたり、息子と離れて親しい友達とおしゃべりする時間が、"ごほうび"だったけれど、今日は息子と一緒に1週間仕事と家事をがんばったご褒美を楽しめている。
その理由はやっぱり、言葉を交わせるかどうかなんじゃないかな、と思った。
私は一対一でじっくりおしゃべりするのが大好きだ。心と心がつながるような気がするからだ。
言葉を一方的に投げかけっぱなしだった息子が、いわゆる"言葉のキャッチボール"ができるようになったことが、私の心を満たすようになった理由なのかもしれない。
ただお世話をする存在だった息子が、どんどん"赤ちゃん"から"人間"になっていく。
ただ産み落としただけでは、決して"赤ちゃん"から"人間"にはなれなかったにちがいない。
私と父ちゃんと、そして息子と関わってくれた人すべてが、息子を"人間"にした数年間。
息子の中には、投げかけられたすべての言葉が詰まっていて、それを使って周りの人とおしゃべりすることができるようなったのだ。心を通わせることができるようになったのだ。
心を通わす方法が、抱っこやハグやキスだけだった息子は、ようやく"言葉"という心を通わすための強烈な道具を使うことができるようになった。
そして今日は、お世話をする親としてだけじゃなくて、一人の人間として、息子と言葉を交わして心を交わすことができたから、私は心から楽しかったんだと思う。
夜の澄んだ空気を吸いながら、キレイな満月の光を浴びながら、そんなことを考えていると、涙腺がフワッとゆるんだ。
5歳。今はひとまず息子を赤ちゃんから人間にする大変な大変な子育てが終わったあとの"花金"のような時期にいるのかもしれない。
でも土曜日と日曜日を経て、また月曜日は必ずやってくる。
乗り越えたら、
しばしごほうびの時間を楽しんで。
乗り越えたら、しばし休んで。
これからもきっとそうやって、数え切れないサイクルを息子のそばで繰り返す。
月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日があるからこその"花金"なんだ。
そう思うと、月曜日とも火曜日とも水曜日とも木曜日とも金曜日とも、正々堂々と向き合っていきたい気持ちがフツフツと湧き上がってくるくらいに、今日は私にとって楽しい楽しい金曜日の夜だったのだ。