12年前の今日、Facebookで「自覚」について書いていた。

2023年は直感的意識と反省的意識を結合できつつあると感じた。それをするまで、それができるまで悩み、大袈裟に言うと血と汗を流してきた。その甲斐があった。

結合するまでの、結合できるまでの道のりは険しかった。ただ、その分、強くなれたかもしれない。

小学校時代から「自分とは?」を自問自答し、外側からも眺め、周囲の皆さんかもフィードバックを受け、少しずつ自覚ができてきたかもしれない。

たしか「自覚」という言葉を意識し始めたのは中学1年、13歳のときなので32年の月日を経て、45歳になる前に、やっと自覚ができてきたかもしれない。その一助となったのは、こちらのnoteに記載した、私の強みをヒアリングした結果である。

自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスを乗り越えられつつあるという実感を得ながら、実は私は何もわかっていないのかもと思ったりもする。まさに自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもある。

このスタートラインでもあり、ゴールでもある自覚について2024年も考えていきたい。

そのためには自分でも考え、皆さんからもフィードバックいただければ幸いです。引き続きよろしくお願いいたします。

12年前、2012年のFacebook

今年は『自覚』をテーマに生きていこう。

自分は家族・会社・友人などにとってどんな価値をもたらすのか?

『自覚』とは・・・・・・・・・・・・

self-consciousness

自分自身のあり方を反省し、自分が何であるかを明瞭(めいりょう)に意識にもたらすこと。自己意識、自己認識、自己反省などとほぼ同義であるが、「自覚」には仏教用語の転用からくる特有のニュアンスが付きまとう。ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。

わが国では西田幾多郎(きたろう)が「自覚の立場」を提唱して、この困難に挑んだ。彼によれば、主客未分の知るものと知られるものとが一つである直観的意識と、それを外側から眺める反省的意識とが内的に結合され、統一された状態、それが自覚の立場にほかならない。

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