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夜と音楽と遊歩道

※このnoteは「書くとともに生きる」ひとたちのためのコミュニティ『sentence』 のアドベントカレンダーの一環で書いています。テーマは「2021年の出会い」です。
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マフラーのない首元から、冷気が流れ込んでくる。

パーカーのチャックを全部上げて、左手で首元をつかみながら走り出す。
このあいだできたばかりのカフェ兼バーは24時クローズと書いてあったけれど、まだまだにぎわいそうだ。今晩は、YOASOBIを聴いている。

11月も末の末、ランニングを始めた。長男のサッカーチームのランニングにつきあったことが直接的なきっかけだ。コーチのリードに、まだあどけなくふざけ合う男児たちが列にならない列になってついていく。最後尾を走ると、ペースもなにもなくても、全身の空気がリズムを持って入れ替わって、関節がほぐれていく気持ちよさを感じた。

陸上部ではなかったが、もともと長距離走が好きだった。1日ゆうに10時間は画面を見ていて運動らしい運動もしておらず、ストレッチだけではどうにもと思ってたけど、なんだ、いいじゃん、走ればいいじゃん。通い続ける見通しがまったく立たないジムやヨガスクールに申し込まなくても、ギアやウェアを買わなくても。小川が流れる遊歩道は、かっこうの場に思えた。

それでもさらに1カ月ほど経ち、家族が寝静まった土曜の夜に思い立って家を出た。寒空にも、5分も走れば慣れていく。踏切を超えて、ゆるく長い坂を下りると遊歩道が東西に伸びている。そうして1回走り、翌週の12月に2回目を走れた。

ちゃんと呼吸しながら、右、左と地面を蹴る足首をやわらかく。そのリズムと、息をつくリズムを合わせていくと、頭が冴えて、ふだんは頭の裏側で起動しているようなことにフォーカスがあたってくる。

職人みたいな仕事をしている。というか、自分の技能でなんらかの「もの」をつくり上げる仕事を職人の仕事というなら、恐れ多いながら、職人だと思わなくてはいけない。

人の言葉と文脈に深く潜って、好奇心と興奮と、何日までに何時までに次のバトンをわたさなければいけない緊張感をあわせ持ってひとりで階段を下りていく。そして再構築して、かたちにする。それが私が運よく続けてこられている仕事なのだけど、器用ではない自分にとってひとつも簡単なことがない。水面のうえに、なんとか顔を出している。

方や、そんな状態を1mmもおかまいなしに、つねに記録的な高気圧のようなエネルギーのかたまりが2つ、私の天秤の片側に乗っている。そもそも天秤なんか、私は持っていなかった。長男が生まれたとき、くっついてきたのがそれだ。この天秤の片側は、いつも重い。もう一方になにを乗せても、つりあうどころかどっかりと居座って、重力と手をつないで、ぴくりとも動かない。子らの辞書には待つという言葉がない。

重い。重くていとおしい。いとおしくて、砂場の棒倒しの棒を支える砂を容赦なく最初に大量に奪っていく存在。自分が奪われている、と思いたくなくて、棒倒しを頭のなかで何百万回もぬりつぶしてきた。

私が夜に家を出ていることを、誰も知らない。知っているのはiPhoneを介したGPSの電波だけで、空のずっと向こうとだけつなぎ留められている。たよりないけれど、それでいい。音楽が耳から全身に沁み込んでくる。

坂を下り切って、バスの発着所を右に折れて遊歩道に入る。この遅い時間にも犬の散歩をしている人がちらほらいて、ぴかぴかと光る首輪をつけていたりする。灯りがついている窓、ついていない窓、12月のイルミネーションで飾られたベランダを見やりながら通り過ぎる。

遊歩道の幅は柔軟に広がったり狭まったりして、そのあいだにはちょっとした公園があったりもする。フェンスで囲われた砂場はでこぼこで、誰かが忘れた赤や黄色のシャベルが埋もれている。

遊歩道の小川にはやがて水がなくなり、そして小川自体がなくなる。もっと進めば遊歩道自体がなくなることをiPhoneの地図で知っている。15分ほど走ったところで突き当たる環状線で初回は折り返したけれど、2回目はそこでは走り足りなくて、4車線にまたがる横断歩道を越えて先へ進んだ。YOASOBIのikuraちゃんの、みずみずしい声をいつまでも聴いていたい。

横断歩道を越えて数分走ると、1本だけ花をつけた木の下をくぐった。寒桜だ。ひとつひとつの花が春の桜よりもずっとささやかで、まちがって咲いてしまったのかと思わせる。寒桜は、春には散るのだったっけ。

今年も、たくさんの方の話を聞かせていただいた。私が仕事で話をうかがう方々は、誰も自分がいま向かい合うことに命がけだ。その言葉を聞くとき、自分は透明になっていたい。自分の価値観もキャラクターも、あるいは天秤のこともすべて捨てて、言葉と声色と表情に反射したい。

その先に、その人が生まれて初めて語る言葉があったらいい。その人のなかにはずっとあったことでも、初めてまったくの他人に伝え得るかたちで世の中にあらわれたものだから。逃さないで、ちゃんと他人がわかるようにしなければ、介在する者の意味とはなんなのだろう。

桜を越えてしばらくすると、スタート地点から3駅ほど先の高架線路にさしかかった。高架をくぐるところだけが、ぐっと暗い。手前で交差する道の向こうは商店街で、街灯がこうこうと明るい。このままここをくぐって、さらに遠くへ進みたい。このまま西へ進めば、どのあたりで朝になるのだろう。遊歩道が終わったら、戻る気になれるのか。

ここで引き返す。桜を逆からくぐり、音楽を4曲分くらい聴くあいだに、いつのまにか小川がまたあらわれて水が流れ出している。バスの発着所を折れ、ゆるい坂を上っていく。来た道を。ヨーヨーみたいだ。

長男がYOASOBIの『怪物』を知り、なぜだか特に気に入ったようで、最近アレクサでいつもかけている。走りながら流れてきたその歌詞を聴いていると、こんな言葉があった。

ただ君を守るそのために
走る走る走るんだよ
僕の中の僕を超える ――YOASOBI『怪物』より

私はいま「君」を守るために走ってないけど、むしろ振りほどくように走っているけど、たぶんそれで取り戻しているものがある。日常生活のなかで実は「いつも走ってますね」と言われるくらいには走っていて、それは駆けだす「君」を「待って!」と声を張り上げて追いかけることだったり、「君」のお迎えぎりぎりに保育園に駆け込むことだったりする。そうじゃなくって。

自分の時間も身体も精神ももともと私のものでなにも変わっていない、なんにも損なわれていないと、足を弾ませる一歩一歩でたしかめられるような気がする。ゆるい坂は、ペースをくずさずに上がり切れる。息は乱れていないけれど、体中をすっかり換気して、頭もクリアになる。足を止めて深く息をつくと、夜気がのどと肌に心地いい。

2つの寝息が聞こえる。もちろん子どもだけを置いて出ているわけではなく、なにかあったら夫が在宅しているが、寝ていてよかった、と思う。私が夜いない時間があることを、知らないでいてほしい。私は私の意志でここに帰ってきているけれど、もしも糸が切れたら帰ってこられないかもしれない。糸が切れるとは、私はどういう状態のことを言っているのだろう。

そんなふうに思いながら2回目を終えて翌日の日曜、思いがけず友人のお祝をすることになって水のようにするするとビールを飲んだ。そのあと走れた。3回目は高架をくぐって少し進み、くるっと回って商店街から帰ってこられた。

45分、5.9㎞。今月このあと、来年も、走れるかもしれない。続けられたら、あたらしい靴を買おう。

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今年もありがたいことに山ほど原稿を、星の数ほど文字を書いた(それは言い過ぎw)のですが、記事制作のことを書こうと思ってたnoteも更新できず、結局創作やエッセイのたぐいに着手してみる余裕はさらになく…。このアドベントカレンダーも、最初はなにか「書く」ことのノウハウとかがいいのかなと思っていたけれど、ここまでのみなさんのは意外にもエッセイ的なものが多くておもしろかったので、こんな感じに書いてみました◎

このnoteは「書くとともに生きる」ひとたちのためのコミュニティ『sentence』 のアドベントカレンダー「2021年の出会い by sentence Advent Calendar 2021」の6日目の記事です。


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