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イツカ キミハ イッタep.86

線路脇にセイタカアワダチソウが列をなして黄色い穂に似た花を揺らしている。まるでこの時期に赤く色付くコキアでも眺めるかのような心持ちで、丁寧かつ綺麗に育った素ぶりの一群を車窓より見送った。

山形に電車で向かうのは、とても久しぶりだった。山形新幹線は、福島を過ぎるとこまめに停車する。米沢、高畠、赤湯、かみのやま温泉、山形。それぞれに駅舎の佇まいも異なり、私はしっかり風景をみてとれるこのスピード感が嫌いではなかった。

今回は山形市内に用事があったが、なかなか気の重い仕事だったため、山形駅の一つ手前、かみのやま温泉というところで下車し、温泉に浸かっていこうと思い立った。
日帰り温泉もやっている、大型ホテルの大浴場はなかなかの湯量だったが、内風呂は源泉を濾過循環していると書いてあったため、露天風呂でのんびりと浸かることにした。
その露天風呂は、内湯と比較するとだいぶ狭く、簾の向こうは2階ロビーを歩く人の姿も見える中庭にあったためか、人目を気にして入る人が少ないようであった。

5〜6人入れば肌が触れ合ってしまいそうな岩風呂の陰で、私は身をひそめるかのようにして静かに浸かっていた。時折、コオロギのような美しい音色を震わせる虫の声が辺り一面に響きわたり、一人でいる静寂を一層強く感じさせた。

目を瞑り、源泉が流れ落ちる際の蒸気が立ち上る方向へ顔を向けていたところ、背後からザッパーンと飛沫を巻き上げて湯に入ってきた婦人がいた。振り向きはしなかったが、思わず漏れた独り言の声のトーンで、ご高齢の婦人だということはすぐにわかった。

「うわぁー、お〜気持ちいい」

さりげなく振り向くと、私と同じように腰掛け用の岩に嵌るかのように半分身を沈め、右手で湯を掬いながら、パッシャパッシャと首元や肩に流し当てていた。全体的に平面積が広く、たっぷりとした身体の曲線を滝のように流れ落ちる湯の滴を目の端で捉えてから、再び簾の前の植栽に視線を移した。

いつのまにか虫の声は止んでいた。

背後で「あー」とか「おー」という溜め息とともに、湯に全身を沈めたと窺えるご婦人が、ピタピタと頬に手を充てている様子を想像しつつ、そろそろ引きあげようと思った矢先だった。

失礼いたします

凛とした、少し高い声が風とともに耳に入ってきた。
思わず入口の石段に目をやると、白い浴用タオルを前に垂らした、線の細い白髪のご婦人が遠慮深く右足をそっと湯に入れるところだった。

そのさまは、まるで一輪の百合のようであった。
ご婦人は、音を立てることなく、スーッと湯に身を落とすと、前のタオルをクルクルッと巻いて短い白髪の上にふんわりと置いた。
そして、目を閉じ、ジッと微動だにせず、湯を味わっているかのように見えた。

最初に入ってこられた、ふくよかなご婦人は急に立ち上がると、
「ふぅー、あちー、あぢー」
と言いながら、湯の中を蹴るようにして歩き、ガラガラっと内湯へと続くガラス戸を勢いよく開けると、これまた大きな音を立てて戸を閉めて出て行った。

百合のご婦人は、そこで目をパッと開き、私を見つめて言った。

いいお湯ですね、柔らかくて、なめらかで

「え、えぇ…。ほんとに」

暫く声を出していなかった私は、突然話しかけられたことに慌てて、声が思わずうわずってしまった。そのことに恥ずかしさを覚えたのか、ご婦人のつやつやとした肌の白さと声の優しさにドギマギしたのかはわからない。
立ち上がろうと思っていたことを忘れて、百合のご婦人との間に流れる静かな沈黙を、流れる湯の響きとともに楽しんでいた。

目を閉じて暫く、湯が少し波立つと、囁くような声が、また風とともに運ばれてきた。

お先に

目を開くとスススーっと扉の向こうに消えてゆく後ろ姿があった。
私は声を返せなかった。
しかし、熱る身体の奥深くから、新たな源泉が湧き上がってきたように感じた。

百合のご婦人のような佇まいを目指そう。
歳を重ねても、謙虚で慎ましく、美しい心で世界を見よう、と。


ゆっくりと露天を出て、夕暮れのオレンジ色の光が反射したガラス戸に手を掛けた。
中を覗くと、ご婦人が丁寧に白いタオルで身体を拭いてから上がろうとしているのが見えた。
くの字に腰を曲げながら、器用に片足を持ち上げて拭く様子がフラミンゴのようで、思わず頬が緩んだ。

かみのやま温泉は、確かに良いお湯だった。

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