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イツカ キミハ イッタep.83

地方へ出張する際に、日の出の拝める宿か日の入りが見られる宿か二択を迫られたら、迷いなく後者を選ぶ。とはいえ、出張なので当然駅前のビジネスホテルにお世話になることのほうが圧倒的に多いのではあるが、たまに日本海側の海が眺められる場所に建つホテルに泊まることがある。

そのようなホテルは、大概大浴場や露天風呂から日本海へ沈む夕陽が見られることをウリにしており、それは食事、温泉に匹敵する宿の価値とも言えるものとなっている。

昨今、山形は鶴岡の日本海に面した海浜の温泉郷に宿泊することが続いた。かつて、有名なミュージシャンの別荘があったというほどの温泉地で、何年か前までは20軒以上の宿が「夕陽が眺められる宿」として営業していたようだ。
今では海岸線沿いだけでも、4〜5軒は廃業しており、朝、散歩がてら海水浴場の周囲を歩いていると、秋風とともに少し物悲しい気持ちになる。

ここ最近の常宿は、浜辺から少し高台にあって、だからこそ、夕陽が海に沈んでいく時間帯に宿に到着していると、一目散に夕陽が眺められるという露天風呂へと駆け込む。日本海の水平線に赤々とした太陽がぽっかり浮かんでいたかと思うと、ほんの5分も経たないうちに、海が黄金色に輝き、うっかり髪など洗ってから再び露天風呂の淵に立つ頃には、灰色がかった海面に、一筋の赤いロードが滲みながら、水平線と混ざり合う瞬間を見逃すのだった。

ただ、それでも、このうえなく満足だった。

変に飾り立てておらず、建物の老朽化もそこかしこに見受けられるが、かつて、海水浴客で相当に賑わっていた頃の面影が館内のそこかしこで、静かに、息をひそめているかのように感じられるのが、なんだか懐かしくて、ホッと落ち着いた。

すでに今年1〜9月末まで60日ほど出張していることから、年末までにおそらく90日程度には達する見込みだが、なかでもこの宿には10泊以上お世話になる計算だ。選ぶ理由は、宿泊料金がビジネス客でも泊まれる範囲内というのがもちろん一番大きいが、なによりその宿の人格みたいなものが、ホテル従業員の方々一人ひとりにより構成されているように感じるからだ。

ある種、結構ほっとかれる反面、一方でウエットな情を感じさせるとでも言おうか…。

こんなことがあった。
早朝、散歩に出掛けようと朝5時半にロビーへ降りたところ、メインの自動ドアが開かない。いつぞやは、この時間でも開いていたなと思い出しながら、誰か従業員の方がいそうなフロアを覗き、厨房で人の気配を感じたので声を掛けた。

「すいませ〜ん、あの一階の自動ドアが開かないんですけど…」

ザァーザァーと流しで洗い物をしていたと見られる白い割烹着姿のおじさんが現れ、困ったように頭を掻きながら、

「そうですか、悪いですねぇ。フロントじゃないとわからないもので。ちと、待っててください」

そう言うと、いったん扉の奥へと入って行った。

再び一階自動ドアの前に行くと、今度はジョギングの格好をしたご婦人が「困るわ、もう、ほんと困っちゃうわ」と今にも走り出しそうな勢いで、自動ドアの前を行ったり来たりしていた。

「あなた、ここの宿のかた?早く開けてよ」

私が扉の下部を覗き込んでいたのを見つけると、勢いよく近寄ってきて言い放った。

「私も宿泊者なんです。防犯上閉めているはずなので、今、係の方を呼んでもらってます」

少し憮然としてそう返答すると、フロントからスーツ姿の従業員の方が慌てて出てきて

「いや、すみません、遅くなりまして。これね、こうして中で鍵を横にすれば外に出られますから…」

そう言うと、にっこり微笑んで私たちに手を振った。

「どうぞ、お気をつけてお出掛けくださいね。戻られた頃には温かいご朝食、出来ておりますから」

ご婦人は振り返ることなく、さっさと扉から出て行かれたが、私はなんとなくほっこりして、憎めないなぁ〜と内心思いながら、軽く会釈して宿を後にした。

散歩を終えて朝食会場に行くと、配膳のおばちゃんたちが並んでニコニコしながら、席へと誘導してくれる。昔は、披露宴会場だったのかな、と思わせる大広間の中を移動する最中にも「昨日はよくお休みになれましたか?」とか、「まだお連れの方はお越しになってはいないですよ」など、話しかけてくる。

並んだビュッフェの品は、決して豪華とはいえないものの、煮物やお浸しは、今朝おばちゃん達がこさえたものだとわかる、地元感を感じさせる、フツーのおかずが盛られている。

そう、全く特別ではない日常の延長がここにあった。
非日常であるのは、唯一、源泉かけ流しの温泉と、その温泉の露天風呂から眺められる夕陽だけだ。

だけど、いや、だからなのか。

地域の方の人情と、日頃見られない景色に、うっかり涙が出そうになる。

頑張ってね、ちゃんと営業を続けてね、潰れないでね、私、これからも泊まり続けるから…。

そんなことを思っている客は、たぶん私だけではないだろう。

「ただいま」と言いたくなる宿に、
今月もお世話になる。

あったかくて、少しさびしくて、ほっとかれているようで、少し気遣われている、そんな宿に…。

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