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本当は「言葉遊び」というより「〇〇言葉」なんです

「僕は、言葉遊び作家です!」なんて自己紹介しておきながら、ちょっとそれはおこがましいかな、なんて思ってるんです。

そりゃあ僕は言葉遊びを作ることに関しては誰よりも、まあ英語は学校英語程度しかわからないから日本語に関してですけど、誰よりもうまいです。だからこそ、「言葉遊び」だなんて言い方、畏れ多いのです。

言葉って、すごいじゃないですか。聖書でも「はじめにことばがあった、ことばは神と共にあった」、なんて言ってるんですよ。・・・もっともこれは「ロゴスを訳しただけ、そしてロゴスとは実質イエスのこと」ということらしいですが(今軽くググった結果の説)。

とにかく言葉は、いや、言葉さんはすごい。

そして、時々訪れる感覚。「僕が言葉遊びをしている」じゃなくて、「言葉が僕で遊んでいる」。

人間がダジャレを言うんじゃなくて、言葉が人間にダジャレを言わせてるんです。ひょっとしたら人間が言ってることは親父ギャグで、言葉が言わせているのが本当のダジャレなのかも。

そこに気付くと、僕は「言葉に使われたい」と思うようになりました。今までの人生振り返っても、最前線でリーダー的なことはしてこなかった。芸人をやっていてもMCは苦手で作家タイプだとは自分でも思ってたし、かと言って作家一本でやっていく勇気もなかった。だから、僕は言葉に使われたい。言葉というスターを世の中に知らしめるマネージャーになりたい。それは大それたこととはわかっていても。


僕らがどうのこうの言うまでもなく、言葉は遊んでいるんです。

だから、「言葉遊び」ではなく、「遊ぶ言葉」です。

英語では一語で「wordplay」って言うけど、これも二語で「Word play.」にした方が良いですね。



言葉はダジャレを使って本質のようなものを教えてくれることがあります。「言霊」の力の性質、というのは色々あると思いますが、そのうち1つがこのような部分ではないでしょうか。
僕が読んだことのある言霊の本の中で覚えているのは、「みそぎとは、身削みそぎであり、霊注みそぎである。」というもの。ダジャレ、と括っては失礼なのでしょうが、同じ音の言葉には、力というか、少なくとも関わりがあるのが言葉です。

「ということは、ベタなダジャレの1つ、「お金はおっかねー」ってのも真実なんですね?」そうはなりません。それは親父ギャグです。
言葉がもし「お金」で遊ぶなら、「鐘」や「兼ね」を使うのではないでしょうか。「鐘」は仏教で重要な意味を持つもの。「兼ね」は2つのものをあわせもつこと、つまり使い方によって良くも悪くもなる、ととれます。お金にはどうやら不思議な力がありそうです。あともう一つ、畏れ多い言葉選びにはなりますが「陵寝」というのはどうでしょう。古墳などには宝飾品も眠っています。御魂を御護りするような力もあるのかもしれません。
マネーでダジャレするとしても「すまねー」なんて言ってる場合ではないです。「真似」でもちょっと本質に触れるには足りなくて、「真根」や「真音」と当てるのはどうでしょう。お金の本質は、あなたの心の根っこや奏でるもので決まる、というようなことを教えてくれているようです。
「お金はおっかねー」はむしろ、真実の逆を伝えているのかもしれません。僕はベタダジャレの中で「ふとんが吹っ飛んだ」は嫌いではないのですが、それはなぜかと言えば「ふとんはそう簡単に吹っ飛ばないだろ」という前提の認識があり、笑いとして成立するからです。真実と逆のことを敢えて伝える、そんなダジャレ、か親父ギャグか、もあるのかもしれません。


さてそれでは最後に、これはもう言葉が遊んでるだろ、というダジャレ、実際に見てもらいましょう。「葉幾はいく」という言葉遊び、まあ言ってみればダジャレ川柳、を作っていた時にできたものです。

葉幾についての記事 ↓

今回は5・7・5の中に、「とも」という言葉を4回使いました。

「僕たち一人ひとりの力は弱いかもしれない、でも、みんなの力を合わせれば、世界の明日だって変えることができるんだ!」
そんな内容です。

1つの「とも」はすぐ思いつくでしょう。もう1つも浮かぶかもしれません。でもそれ以上に、言葉は遊んでます。

それではどうぞ。




友と共に 世界に灯せ Tomorrowを




知ってましたか?明日tomorrowの半分って、tomoでできてるんですよ。
僕は、それを言葉に教えてもらいました。言葉のことは、これからもできるだけ近くで見ていきたいです。

トップ画は、「遊ぶ」をイメージしたらブランコだなと思い、フリーサイトで検索した中から使わせてもらいました。「遊」の字には、「子」が入ってますし。

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