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50年後に無くならない職業について

正直に申し上げますと、うちの子はあまり賢い方ではなく、将来が心配です。今のうちから特定のスキルを身につけさせることで、将来的にあまり困らない状態にしておきたいところですが、そのスキルが活用できる職業が将来的になくなってしまっては困ります。ということで今10歳のうちの子供が定年近くまで働き続けることができる仕事が何か、考えてみました。

現在ある職業に対して破壊的な存在といえば、AI(人工知能)です。今まで人の手でしかできなかったことが、AIに交代された世界が徐々に現実味を帯びてきました。パンを自動的な認識するAI みたいなシステムが増える事で、人件費の削減が可能になりますが、これは雇用の消失と表裏一体です。先進国における将来的な人口減少に対するよい解決策である一方で、残された若者に対して「レジ打ちをすることで金銭を得る」ような機会が失われていきます。AIではないですが、もはや多くの小売店が採用するセルフレジが受け入れられることで、この方向性は更に加速していき、認識と判断を必要とする仕事の殆どがAIに取って代わられていくことになります。

このような中、「クリエイティブな職業だけが生き残る」的なやや専門的知識に欠いた論調が存在しますが、AIはクリエイティブもそれほど苦手ではありません。Articooloの記事の自動生成やAIベートーヴェンのような記事がある通り、ある程度の情報の塊から新しい情報を作り出す技術をAIは持っています。これは基礎技術としてはGAN(敵対的生成ネットワーク) が2014年に生まれた時点ですでに確定していた事実です。「人間の真似事であり人の真の感情を揺さぶるようなことは機械にはできないんだー」といった安っぽい感情論で訴えられることがありますが、残念ながら人類の進化はそもそも「模倣+α」の繰り返しによって行われているので、AIがやっていることはそれと同じです。つまり、「人間独自」という考え方はもはや存在せず、人間独自を学んだAIが同様の発想を組み立てることは可能であると感じています。私は、数学科出身ですが、数学の理論ですらAIによって進化させることは可能であるのではないかと感じることがあります。

言い換えれば、論理的な側面だけで見ると殆どの事務的な作業はAI交換可能であると思います。しかし、現実的には、その他の所与の条件によって、そうしたAIの構築ができない、あるいはそもそも求められないことが発生するので、あらゆるすべての業務がAIに取って代わるということはない、というのが結論になります。その為、50年後にも人類の前には、残念にも仕事が存在しており、その仕事を通じて嬉しくも経済活動を行うことになります。

では、どんなことがAI化の阻害要因になるでしょうか?ざっとリストアップしてみました。

*探求心
*体を動かす
*六感のうち電子化不可能なもの
*政治的・地政学的な障壁
*インフラの転換
*ムーアの法則の限界とコスパ

これらの意味するところを説明し、何が起きて何が起きないかを明確にすることで、50年後の世界を想像し、そこから息子に適切な仕事を見つけることが本書の狙いになります。

探求心

1980年代から始まったバーチャル依存へのウェイトは日々増加していきます。今後、AR/VRの進化により、1日のほとんどをネットワーク内で過ごす人も増えていくことが予想されます。事実、コロナ架をきっかけにリモートオフィスで業務している人は、Zoomを通じたバーチャルな空間の中で1日の殆どを過ごしています。現在(2021年8月)はまだ、動画を通じたコミュニケーションですが、仮想空間の中で仕事をすることが可能になると、より仮想空間に近い状態で生活を行うことになっていきます。
会議室にとらわれないコミュニケーションや物理的制約から解放されたリモート会議を経験すると、業務効率性だけで見ると、もはやリモートオフィスの方が従来より良い結果を生むケースがあることを皆さんも徐々に感じているのではないでしょうか?

こうした環境に対して、馴染むことができる人と馴染みきれない人がいるのも事実です。非リアとリアです(非リアはスマホ、PCといったバーチャルな社会での生活のこと、リアは現実の社会での生活のこと)。非リアな人は、1日中部屋にいることに特に違和感を感じることはなく、業務終了と共に別のPCやスマホを立ち上げ、ゲームやネットの世界に潜り込みます。一方で、リアな人は、身動きの取れない会議から解放された瞬間に外出してランニングし、週末はキャンプに向かいます。そしてできる限りのリアルな場でのコミュニケーションを求めます。

ただしこれらは、100%リアな人・100%非リアな人のようなステレオタイプではなく、グラデーショナルに存在します。一人の人間であっても、ある時はリア的なものを求めたり、またある時は非リア的なものを求めたりします。ポイントは、従来はリアしか存在しなかった社会が、非リアとリアの両方の選択肢を高度に持つということでです。逆に言えば、リアは無くならないというのが重要な事実です。

AIは人間の感情的な欲求を満たすソリューションを作ることも可能です。1on1マーケティングという言葉が少し前に流行りました。人間の過去の行動履歴から、その人が何を好み、何を提供すれば喜ぶかを分析し、それを提供するテクノロジーは日々進化しています。現在ではビックデータ、行動心理学、そしてAIを組み合わせたアプリが徐々に出現しつつあります。例えば、SELFというアプリはAIがメンタル面でのサポートを行います。

50年先においては、アンドロイドが人間と遜色ないか、それ以上のコミュニケーションを提供することも可能になるでしょう。ネット上の自分の好きなコミュニティに行ったら、自分の相手をしてくれていたのは人間ではなく実はAIアンドロイドでした、というような状況が、起こりえるかもしれません。面倒で自分の思い通りにならない人間とコミュニケーションするより、自分の求める対応を提供してくれるアンドロイドとの日常生活を望む人も増えていくはずです。非リアにおけるコミュニケーションの欠落という課題を、AIが解決することが可能性としては十分に起こりえます。現在はエンターテインメント目的ですが、医療面でのサポートなど実務的な面でも利用されていくことでしょう。

それでも、そうした生活を望まない人もいますし、そういったサポートを求めないシーンも多く存在するはずです。彼女彼氏と旅をして、旅先にある昔ながらの店でお土産を買い、よいホテルでおいしい料理を食べてぐっすり眠る、こうした娯楽を捨てる必要はないのです。つまり、ある休日を、ネット上で自分にフィットした非リア生活として過ごすか、外出して現実を感じるリア生活を過ごすかは個々の選択次第ということになります。

ただし、この2つの間には非リア・リア以外に大きな違いがあります。それはコストです。非リアは、実はとてもコストがかからないのです。

昨年(2020年)の夏、コロナ架において外出できない状況において1つのゲームタイトルをずっとやって過ごした人もいると思います。MMORPGや集まれどうぶつの森などは、その空間の中で長期間すごす工夫にあふれていています。平均的なゲームソフトの単価は5,000円から10,000円ですし、スマホのゲームであれば無料で利用することができます。

一方で、リアの典型である旅行に出るとすると数万円単位での出費が必要です。どちらの方がコスパが良いかといえば、一目瞭然でしょう。

では、50年先において、リアは金持ち=成功者のみがつかみ取ることができるものであり、非リアは貧乏者の遊びなのでしょうか?そのように認識してしまうとしたら、それは巨大な勘違いです。本質はむしろ逆で、従来までの金銭的な経済社会自体が、徐々に崩壊しつつあると解釈するのが正しい判断になります。

ちょっとした思考実験をしてみましょう。リアと非リアの両極端ではなく、両方の要素を持った人がいるとします(とりあえず田中さんと呼びます)。田中さんは、両方の生活が好きです。ある日、残念なことに今までの会社でリストラあり、低い年収の仕事に移らざる得なくなりました。年収が下がることは残念なことに感じましたが、以前よりもストレスのない労働環境はありがたくもあります。自分の収入を考えると、非リアの生活圏に長く身を置いた方が心地よく感じれる機会が多いことに気づき、買ってきたMMORPGのオンラインコミュニティで遊んだり、無料のゲームや無料のマンガを見て過ごすことが多くなりました。そんなある日、前の職場から復職の打診がありました。田中さんは果たして以前の職業に戻るでしょうか?

やや恣意的な内容でしたが、言いたいことは伝わったと思います。おそらく田中さんは以前の職業に戻ることはなく、新しい生活を維持することを選ぶでしょう。そしてこれは、個人ではなく、昭和や平成初期にはあり得なかった3つの社会的環境の変化によっておきた結果であることが分かります。

まず、長期間労働や過酷な労働による対価としての高収入より、定収入でもストレスのない業務が受け入れられる社会ができつつあるという事。高度成長期の元サラリーマンを親に持つ私には、どこか高収入・成功者は上位のようなベクトルが頭の中にありますが、自分の子供たちにそういった教育は特に与えておらず、ただのバリエーションのような感覚しか提供していません。これは、機械化により全世界的に社会保障が充実された結果、すくなくとも日本において衣食住で大きな問題になる可能性がだいぶ低くなってきたことが理由として挙げられます。温暖化を中心とした社会不安・懸念はまだ存在しますが、それでも50年という単位で日本が世界的にワーストの部類に入ることはなく、依然として上位に居続けると思います( 概ね、この記事の感覚に近いです → 人口半減も経済は世界4位維持 80年後、諸外国も少子高齢化 )。

次に、オンラインでのコミュニティが発達し、わざわざリアルに行かなくても人との接点を持ち続けることが可能になったという事。これについてはすでに説明済みの通りです。非リアでの生活は、日に日に充実しています。

最後に、コンテンツが充実し、廉価で得ることができるようになったことが挙げられます。音楽、マンガ、映画といったコンテンツは日々生産され続けており、昭和のような限られたコンテンツに高いお金を支払うという必要性が日々下がっています。月額1,000円未満のサブスクと無料のコンテンツだけで十分に余暇を楽しむことができるようになり、お金がなくてもそれなりの楽しみを得ることができるようになっています。

経済という概念は、金銭を基準として成り立っています。つまり、お金持ちこそが上位であり、貧乏物は下位であるという縦の構造を社会に展開します。これは、人々の生活に生産活動が必要とされているという前提の上に成り立っています。一方で、産業自体は1次産業から3次産業へとシフトしていきました。これは機械によるオートメーションの賜物で、結果として人々の労働はサービスの生産に向かっていきました。しかしサービス産業において、コンテンツは日々増えていき、インターネットを通じて紙が不要となり、過剰供給の様相を成した結果、生産活動自体が供給過多になりつつあるのが現代社会です。スマホのアプリを見ると、大量のゲームやマンガが利用可能で、選ぶのに困るぐらいです。結果として1つ1つの価値は低下し、非リアのサービス産業は飽和していきます。おそらく将来においても、この傾向はなくならず、結果として、人々の生活の中で、「経済」という考え、もしくは「金銭」という考え方そのものの優先度が下がっていくことになるでしょう。

以前は1億円の車、3億円の豪邸、といった金額が枕詞になって物事を語ることが話題性を呼びました。これから先は、こうしたアイコン化された製品やブランドは徐々に光を失い、むしろそういったものを持つこと自体がなんだか虚しくなってくるかもしれません。バブル時代に栄華を極めたブランド至上主義は徐々に影を落とし、ユニクロを着て街に出ることにもはや何の抵抗感もないのが現代社会です。

では、リアは死んだかのかというと、そういう訳ではありません。コロナ架において、多くの時間を在宅に強いられている状況が生まれたことにより、外出することの楽しみを改めて感じられている方も多いのではないでしょうか?ネットショップで多くのものを買うことはできますが、それでもショッピングモールに行ってあるかどうかわからないものを探しに行くのは楽しいものです。

はるか昔、旅とは遠くから物資を届けるための手段でした。紀元前のヨーロッパにおいてコショウは金銀と同等の高級品であり、それを得るために決死の覚悟で船に乗るのが旅というものでした。現代社会においては、旅は主に娯楽を目的として行われます。非日常に移動して、美味しいもの食べ、見たことがない景色や匂いを感じることができるのは、やはり楽しいものです。長期の旅行に限らず、日帰りで家族と行く水族館、友人と楽しむショッピングモール、近くの街での恋人とのデートなども本質的には同じような楽しみを持ちます。これが探求心です。

どんなに機械化が発達して、ロボットが食料物資を自宅に運んでくれるようになったとしても、リア属性を少しでも持つ多くの人々は、外出し、旅に出かけ、目の前にいる人々から何かを買おうとするでしょう。

1つ書くのに意外と時間がかかるので続きにします。いいね!をもらえると続きを書くモチベーションになるので助かります。

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