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若者気質(庄司薫)

 まず、庄司薫と私の出会いから書き始めよう。
 庄司氏の作品に出会ったのは、70年代前半の私の高校時代だった。
 文芸作品になじみ始めた頃だった。図書館の世界文学全集に手を伸ばして、新しい世界を見つけたような気がしていた。今から40年以上昔の話になる。
 庄司氏は、私の高校に招かれて文化講演を行ったことがある。
 庄司氏は、まだ若くて、髪の毛がふさふさしていた。流行だったのか、トータルネックのセーターを着ていた。多忙な文筆生活の合間を縫って、講演会の演壇に立っているようだった。そそくさと書斎から抜け出てきた感じだった。体に着いた消しゴムのかすを気にしているようだった。
 私などから見ると、外国の文豪に比べると、現代日本の流行の作家は親しみが感じられた。

 当時、庄司氏の作品は、高校生など若い読者の心をつかんでいるようだった。私は、庄司氏の作品に引き込まれて、続けて何冊か読んだ。
 薫君という主人公で綴られる連作が、好評を博していた。薫君は平凡だったが、比較的経済的に恵まれていて、どちらかと言えば優等生だった。
 描き出される青年の心理に、私は共感できた。若者風俗、若者気質が具体的に描かれていた。私はその頃、詰め襟の黒い学生服を着て、地方の進学校に通っていた。薫君が送る都会の名門校の学園生活は魅力的に思えた。

 それでは、作品には、どんな特色があったか。
 形式面では、1人称で現代的な語り口だった。主人公の、じょう舌で軽妙な語り口が印象的だった。若者の日常的な言葉や言い回しが多用されている。若い読者は親しみを感じられる。
 内容面では、作品の魅力のひとつが人物像だった。主人公は、青春時代のまっただ中で、若さや性や自分たちの世代のことで悩んでいた。作者は現代の若者の青春、苦悩を描いていた。
 もうひとつの魅力は、その主題だった。若者たちを翻弄する、若さという得体の知れない怪物だった。若者はいつも、先が見えない。作品には暗中模索、袋小路の迷い道が示されて、それが読者の共感を呼んでいたように思える。

 しかし、この作家の作風は、過去に一度変化しているようだ。
 現代的で軽快な特色は、庄司氏の文学の後期に当たるように思える。
 初期では、庄司氏は20歳の頃、最初は福田章二という実名で、文芸界に登場した。「喪失」「封印は花やかに」などがある。文体は硬質で、緩みは感じられない。内容は異常な状況を選んでいる。重さ、深刻さ、緊張感がある。
 何かしら理由があって、文筆活動を中断する。10年間の空白期間ののち、文芸界に再登場する。今度は、別の相貌で活躍を始める。「白鳥の歌なんか聞こえない」「赤ずきんちゃん気を付けて」などが記憶に残っている。
 初期の作品とは、大きく趣が異なる。文体も内容も、難解から平易に変化する。幅広い読者を獲得する。

 ところで、庄司氏の文学を時代の流れの中で見ると、どうなるか。
 文筆活動の再開は、東大の安田講堂事件と同時期だった。作品の与える軽快な印象は、70年前後の学生を取り巻く状況を考えると、奇異の念を覚える人もあるかもしれない。
 しかし、庄司氏としては、30才を超えて、20才の頃の青春を振り返っていたのかもしれない。個人の文筆活動は、必ずしも時代の状況に関連づけられない。


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