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じぶんを受容する話

こんばんわ。

遅くなってしまいました。

ギリギリ月曜日。

なんの問題もなし。


前回は💩の話でした。

おトイレで
お試しいただけましたでしょうか?

「少し難しかった」
というご意見もいただきました。
慣れないとそうかもしれない〜


ちょっと足の位置変えてみたり

出す!ってより
送る〜みたいな感覚で
引き続き試してみてください。

レッスンに来ていただいている方は
また一緒におさらいできればと思います。
(忘れてたら言ってくださいw)


さて、今日は「自己受容」の話。

ピラティスを教えはじめて
かれこれ6〜7年?経つのですが

レッスンをしていて
不思議なことがあります。

それは同じようにレッスンした後

「すっごい!1回でこんな変わるんですか!」
というご感想と

「う〜ん、ごめんなさい、よくわからないです。」
というご感想があります。

最初の頃は
「この差、私の技量が上がったら無くなるかな」
とか一生懸命考えていたのですが
関係なかったです笑


わかるもわからないも

どちらも真実で

ぶっちゃけどっちでもいい。

(!?)

なぜならそれは人の感覚だから
私に変えようがないなと落ち着いてます。

「お前プロとしてどうなんだよ」
とか言われそうですが

もちろん目の前の方に必要な
ベストなお手伝いは心がけています。
日々研究もしています。

でもその結果

わかっても、わからなくても
どっちでも良いと思っています。

「今、ただ、そうゆう感覚なんだなー」

ときいています。

そもそも運動は自分自身がするもので
自分の体を感じ取るのもご自身です。

私には“ガイド”しかできない。

「どう感じてもOK」と取るか
「わからなくてはいけない」と思うかも
ご自身だと思っています。


体を使ってコアが安定する
背骨から腕が繋がる
股関節がハマる
お腹から伸びる
首がすわるetc…

「ただ、そんな心地よい感覚があるよ」

「その先にどんなあなたがいますか?」

ということを共有したい。

「せっかくレッスン受けたのに何もわからなかった」
「ちょっとここが変わったかな〜ってぐらい」

それが良いととるか悪いとるかは
本当に人それぞれで。

「何もわからなかったけど、こんな動き楽しい」
「ここがなんか変わって…もっと変わりそう!」
と捉える人もいます。


起きている現象としては
きっと同じだと思います。
(仏教の「空」の話みたいですね。)


自分を受け入れるって
どっちの状態なのでしょう?

体にクセがあるように
思考にもクセがありますよね。

ピラティスに限ったことではなく
きっといろんな場面である話だと思います。

レッスンの中で
「わからなかった」
と答える方の多くは
「ごめんなさい」「私〇〇なんで…」
といった言葉が付きがちなのですが

これ、私に対して
謝ったり言い訳したいのではなく

自分の中の正しさに当てはまらないことが
この言葉になるんだろうなと感じています。

この時ちょっと切なくなる。

私も無意識でめっちゃありました。

誰にもそんな風に思われてないし
言われてもないのに
自分が自分をジャッジしている。

ハッと気付いた時
ポロッと涙が出て
もっと楽に生きよっ、と思えます。


この動き1つ

わかったって、わからなくたって

私は私でよい。

「めっちゃ伸びて楽だ」

「今日はなんもわからん」

どっちだって

素晴らしいいい。

まして体やのことなんて
やっていったらわかるしね。

自分がどこを観て
どう感じて
何を得るかって
自分で決められるし
そこに軸がある。

だからまず受け容れることから。

そしてその先に安定が待っていると思います。

なんかこの話を書いてたら
陶芸が思い浮かびました。

みなさんはいかがですか?

いろんな人の話きいてみたいナ。

おやすみなさい。

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