「正しい答えがある」のは本当?

学生時代でも、社会人になってからも、いや幼稚園児の頃から、色々なことを言われて育って生きていく。

そのなかで、どうも日本人の教育として多いのはこういうことなのだろうと自分の経験や本や人の話から推測する(外国のは受けていないので、偏見が大分あることは承知のうえで)。

「しっかりしないといけない」
「何でもできる必要がある」
「いいところにいきなさい」
「◯◯はよくない」

つまりはこういうこと。

「すべてに1つの正しい答えがあって、その通りにしなければならない」

ということである。

確かに、それで良かったときもある。
それこそ、戦時直後から高度経済成長期のころは。

でも、もはやその時代は終わっている。
しかし、教育内容は変わっていないし周りからの声かけの仕方も一様である。

どうも、自分達大人が学校を出てからあまりにも学んでおらずやり方をそのまま引き継いでしまっているのではないか。

しかも社会のなかには答えなんか1つもありはしない。
それこそ人によって好き嫌いがあるように、1つの物事の捉え方なんか同じになることはありえない。

にもかかわらず、どこか他人に答えを求めてしまっていて、ただそれをこなしているだけ。

そしてこなせなくなるから、注意される。
怒られる。

そして、こう思う。
「自分はよくない人間である」と。

今回のことは自分のことも少し追記させていただく。

自分自身もまた、そうした教育を「しっかり」と学生時代までに大分染み込ませられた人間であるからである。

今思うと大分おかしかったが、特に中学生の頃は学校の成績と県内の模試の偏差値が高いことが自分のステータスとしか思えず、あまりに人間関係のこととかは重視しなかった。

こう書くとただのガリ勉にしか見えないから追記すると小学生から高校生まで野球は続けていた。ただその場で与えられた練習をこなし、監督やコーチ、ないしチームメイトの指示待ち人間であったということも加えておきたい。

こういう生き方を10年以上続いた訳だから、「与えられたものだけ」しかないということと、「与えられたものを確実にできること」でしか生き残れないという感覚に陥っていた。

だから、できないということに対して非常に罪悪感を覚えていたし、自分のことを認められなかった。

今でこそ大分落ち着いてきているが、確かにどうかしていた。
あまりにも、答え探しをしていたのだから。

では、周りの人はどうかというとやはり「正しいこと」を求めすぎているのではないだろうか。

正しい姿勢、正しい歩き方、正しい健康習慣、正しい食べ方、正しい書き方…。

どうも、「自分のなか」でなく「周り」から引き出そうとしている。

勿論、何も知らないことであったり上達する上でやり方を学ぶという意味では他の人の力を使うことは非常に有効であるからその意味では使用しても構わない。

但し、あまりに人に頼りすぎて本来各人が持っているいいものを消しすぎてはいないだろうか。
全部をやろうとして、不要なものまでやろうとしていないだろうか。

少なくとも、人生に「正しい答え」なんてのはない。
いや、あるなら「正しい答えがない」というのが「正しい答え」なのかもしれない。

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