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「すばらしき世界」というタイトルの謎

またいい映画を見てしまった週末・・・(涙)。泣き過ぎて頭が痛いです。はあ。製作の皆様ありがとうございます。

役所広司さん、長崎出身なのですね、どうりでリアリティと凄みが違う。この映画のなかで描かれる、福岡の、きっと堅気じゃない空気感も、肌感覚で知っているのかもしれないですね。

原案は、これは佐木隆三さんの『分身帳』。書かれたのは90年代とのこと、今とは時代もヤクザの存在感も違うと思いますが

これは必ず読もうと思います。

小説を原案に作ったはずの映画に、これほど切ないリアリティを乗せることのできる、西川美和監督はやはり天才なのでしょうか。

「ふつう」じゃダメだともがいている若者もいれば、社会の片隅で、「ふつう」になろうと懸命に生きている人たちもいる。

「真っ当に」「みんながするように」「一般的な」生活を手に入れようとしている人たちもる。

市役所に行くたび、胸苦しい思いをしている人たちの、生きづらさ、虚しさ、悔しさ、やるせなさ。

視点が、出所した元・ヤクザ三上にありながら、そこに肩入れし過ぎずに社会全体を俯瞰しているところに、監督の「社会のありようを直視する」感が伝わってきて、嗚咽してしまいました。

実際には、こんなに三上に手助けしようとする人がいるのか、人はもっと人に無関心じゃないか、社会は冷たいじゃないか、と思わなくはないけれど、でも、それを描いたところで、私たちにもたらされるものって何でしょうね。

現実的である、ということは共感をうむベースにもなりましょうが、映画というのは、あるいは物語というのは、私はやはり、希望であるべきだ、と思っています。希望を描いて欲しい、と思うわけです。

だけど、この映画には、わかりやすい希望はあまり描かれていないように感じます(全体を通してみると違うのですが)。

この映画が描いているのは、この社会で見過ごされている「現代社会あるある」で、

主人公だけじゃなく、やくざや介護施設、スーパーの店主、ライターみんなの立場における正義を描きながら、決してそれぞれの「良い悪い」に偏らず、それが、冷たくもあり、あたたかくもあり、虚しくもあり、

この社会のいびつさを知っても何もできないでいる、今の自分の視点から、全員を見ているような感覚がしました。

”なによ上品ぶって! 止めに入ることできないんだったらせめて撮って伝えなさいよ!”

とあるシーンのセリフです。非常に、痛かった言葉。私にとっては、ですが。


さて、見終わった後、一つだけふに落ちなかったこと、それはどうして「すばらしき世界」というタイトルだったのだろう? ということです。

結局、物語は、そのようにそれぞれの現実があり、素晴らしいことだけで終わっていないからです。素晴らしく美しい世界ばかりが映し出されているというより、社会の格差、差別、暴力、・・あらゆるえぐい現実が感情抜きに描かれている。

そしてある意味、この映画も、母性を求める物語でした。母親の幻影を求めて彷徨っている男の、置いていかないで、取り残さないで、と叫んでいるような。お母さんは、その求めた先にいるのか、という問いは、この映画からももたらされたものでもあります。

彼は幸せだったのか? この世界にあるふつうって何なのか? 多様性とか、個性とか、繋がるとか、ひとりぼっちとか、一体何なんだ?

私もこの世界のひとりとなって、泣きながら、生きるってどういうことなの、しんどいから素晴らしいものなの、そういうことを言いたかったのか監督は、と思ったとき、

この世界には答えがない、と気づいて、そう、

この世界には答えがない、そのすばらしさがあると思って、だから、「すばらしき世界」なのかもしれないと思ったら、見終わってからしばらくたった今も、思い出しては涙が出てくる始末です。


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