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その人の「声」が聞こえるような対談原稿を作りたい

初めて対談原稿をまとめた時のことである。対談のテープ起こし原稿をもとに、章立てをしてまとめていく本づくりの仕事だったのだが、

私は当時は(も)素直で純粋なフリーランスのライターで、本人が言っていないことを制作上補足するのは「よくないこと」と考えていたので、

テープ起こし原稿から拾った箇所を、できるだけ触らず、そのままの素材を活かそうと考えた。

テーマに沿った内容。本人のそのままの言葉。多少意味をつなげるため順序を入れ替えたが、会話のテンポも再現できている。うん、なかなかいい原稿!

・・・と、思って編集部に提出したら、「これじゃだめだよ」とほぼ赤入れされずに戻ってきた。

「もっとわかりやすく、読みやすい文章に直さないと。やり直し」

とのことであった。

その時、対談原稿とは面白い仕事だなあと思った。

確かに、そのまま活字にしただけでは、その時の場の空気なんて伝わるものじゃない。てにをはを治す以上に、もっと読むための文章にテコ入れして行かなくては原稿にならない。

だけど、本人が言っていないことを言ったように書かなくてはいけない、と知ったのは、当時の私にはまあまあショックなことだった。(それをよしとしない出版社や編集者ももちろんいると思うが)

私がしなくてはいけないのは、本人が話した言葉以上のことを補足することでもあり、あるいは不要な発言をバッサリと削ることでもあり、

やりがいをますます感じるとともに、ある意味「嘘をつくる仕事」の片棒を担ぐことになる可能性も、この時自覚したのだった。


最近のウェブのインタビュー記事を読んでいると、流れるようにすーーーっと読めてしまったものが比較的多い。す ーーーっと読めてしまうのは良いことだが、ただ内容は一切心に残っていない。

へえ、こんなこと考えてるんだ

という感想を、その直後は持ったかもしれないが、それがどんな内容だったかもう思い出せない。

取材対象者ではなく、筆者が喋っているみたいな記事だな、という印象は残っている。

地の文があり、コメントがあり、文章も私なんかよりずっとうまくて、だけどそのコメントのどこにも、本人の個性やキャラクター、本心の手掛かりになるような言葉は見当たらず、さらさらと流れていった。

言葉を補ったり、順番を入れ替えたり、妙な息継ぎや語尾、文章のつながりを訂正したり・・・

そういうことをやりすぎると、今度はその人の息遣いが消えてしまうことがある。その人の「声」みたいなものが、聞こえなくなってしまう。


できればそのまま、その声を記事という拡声器に載せたい。その妙な濁音や、息継ぎ、意味不明さ、消してしまうにはもったいない個性・・・・

面白いと感じる、小さな特徴をどこまで残すのか、いつもその塩梅で悩む。だからこそ、対談原稿は、まんまやり直しを食らったあの時から、個人的にかなり燃えるジャンルの仕事にもなっている。笑。


けれど、やりがいを支えるのは、「本人の息遣いが聞こえる原稿」を作りたいからであって、嘘で塗り固めて売り上げを上げるためでも、きれいに整えて読みやすい文章をつくためでもない。

多少わかりにくくても、どこかに引っ掛かりを残すフックを見つけたい。文字情報だけで。その人の「声」を伝えるためにどうすればいいのかを考えたい。


余談だけれど、自分のいじめ体験を赤裸々に語った某ミュージシャンの原稿が出回った時、そのあまりの内容に私にも強い怒りがわいたけれど、それは同時に、「この原稿を作った人たち」のことを思い起こさせた。

多分、「読ませる」ための工夫をしただろう。言葉も加え、順番もかえ、そして、テーマや企画にそった内容を色濃く抽出しただろう。おしゃれでカッコよければなんでも良くて、本人による校正もなかったのかもしれない。あの人の「声」は、どこまで「声」になっていただろう。

読ませる、というよりは、売るために? あんなものが売れた時代を憎みます。

その現場に携わることがない読者の立場に立ってみれば、記事がどのように作られているのか、書いてある以上のことを想像することは難しい。だからこそ、その責任を背負って、文章を書いて届けたいという試行錯誤は続きます。


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