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ことばの標本(19)_「みんなに迷惑をかける」

「みんなに迷惑をかけるね……」

(部活の朝練に寝坊し、遅刻確定で家を出る前に娘が行ったことば)

今朝は起きたら娘の部活集合の15分前。

遅刻確定。娘に焦りはあったがどこか冷静で「先生に怒られたら終わり」「急いで行けば10分」と自分に言い聞かせるように準備を済ませ、最後に「みんなに迷惑かけるね……」と言って出て行った。

迷惑をかける……。

そんなこと、考えるようになったんだ。娘から、そんな言葉をあんまり聞いたことがなかったので、「大人になったな」とじわっと胸が熱くなった。

その後も、娘の「迷惑をかける」で胸アツになっていることを、しばらく反芻した。

「迷惑をかける」ってのは、成長しないと使えない言葉なのかもしれない。

社会性が身についたということかもしれないし、全体の中での自分の責任や役割を意識できていることでもあろうし、

この言葉が使えるようになるには、それなりの人生経験が必要そうだ。

また、「みんなに迷惑をかける」という意識になるのは、「みんな」が同じ目標やゴールを持って動いているときなのだろうな、とも思った。

みんなとの意思疎通がない限り、自分がどう振る舞おうと他人に配慮することなどなさそうだし、ということは今彼女は、自分以外の誰かと少なからず気持ちを通わせているということでもあるのだろう。

親の知らないところで、やっぱり子どもは自分のペースで、自分なりに学んでいる。


改めて考えてみると、「迷惑」という言葉、なんだか厄介だなとも思うわけである。

「迷惑をかけるな」と昭和世代は教え込まれてきたわけだけれど、自分自身は生きていることですでに誰かに迷惑をかけていて、もはや迷惑かけずに生きる方法がわからないのが真実であろう。

通行中誰かとぶつかったり、夜中洗濯機を回してしまったり、電話に出なかったり、今週出した生ゴミは多かったり・・・。

迷惑の語源は調べてみると、元々は「道理に迷うこと」で、「どうしていいかわからない」「戸惑う」など。そもそも他人に向けて放たれるというより、自分自身に向けての言葉であったとは驚きである。

「戸惑い」だったはずの「迷惑」が、時代とともに他人や社会に広がり、他者によって不快な思いをするという意味になっていったと解説する、こちらの東大新聞の岩本教授の解説はとても面白かった。

記事中にも触れられているけれど、「世間」が、顔の見える関係性のことを意味した時代と、公共性や公衆を意味するようになった時代とでは、迷惑の意味は異なる。

私的なものだったはずの迷惑が、公衆や社会的マナーといった社会的迷惑の意味で使われるようになるのは近代のことで、

そこには、社会の発展のために公衆や公共の意識付けが必要だという、政治的意図もあったのですね。

「迷惑」がもともとは自分自身に向けて発する「どうしたらいいかわからない」だったことは、そもそも迷惑をかけずにいきてはいけない現実を踏まえると本質的だなあと思うし、言葉には政治利用されるほどの威力があるということにも、もっと自覚的であろうと思った。


ちなみに、遅刻のすえ、部活の練習試合でもミスばかり、遅刻以外でも先生にさんざん怒られたという娘は、帰宅後すっかり落ち込んでいる。

いつもなら「あの先生ムカつく」とでもいいそうなものを、今日に限ってしおらしく「今日はマイナス10点くらいだった」と話す娘に、どう声をかけてやったらいいかわからない。

作文教室に来てくれる子どもであれば、なんとか言葉を紡いで前向きな気持ちにさせてあげたいと心を砕くものの、我が子となると戸惑いも大きく、言葉が続かないのがまた歯痒い。これこそ本来の「迷惑」なのではないかと気づき、今日はゆっくり一緒に休もうかと思ったわけである。


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