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綴らなければ手のひらからこぼれ落ちてしまう日々のこと

陽の光で目が覚めて、家のことを済ませて自宅で仕事をはじめ、お昼ごはんを食べて仕事やらなにやらをしていたら空が暗くなって、そして眠ってまた朝の光に包まれる。

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そんなことを繰り返していたら、3月が終わろうとし始めた。さっきまで3月3日くらいで、「そろそろ『3月9日』聴かなきゃな」とかって思っていたのに、いつの間に30日なんて数字を迎えたのだろう?

世の中が、大きく変わる音のした一ヶ月だった。

不思議な時間だった、なんてきれいなことばでは済ませられない、済ませない。

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仕事に影響が出始めたのは、2月の頃だった。まだ欧州もアメリカも「対岸の火事」だと思えていた時期で、武漢はじめアジアに注目が集まるものの、日本にもまだ平和な空気が流れていた(今だって世界で見たら、平和な空気が流れすぎている島だと思う。個人の見解を隠さずいえば、もっと厳しい空気であるべきだ、日本も。これはおかしい)。

何を隠そう「旅行」という、愛してやまない対象の領域でお仕事をさせていただいていた私は、今回のことで少なからぬ影響が出る、分野もある。ただ、そういう個人のことはここでは大きな問題だと思えない。

大きな流れ。あまり声を大きく上げて主張をするのは、本当は苦手なのだ。けれど、声を上げねば。この小さな私の声だとしても。と今回は思わざるを得ない。

……なんて、仰々しいことを綴りたくてnoteの下書きを開いたんじゃない。

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なんとなく、やっぱり日記でも書き始めようか、と考え始めたのだ。

思っていることや感じていること、この感覚。「綴らなければ手のひらからこぼれ落ちてしまうモノコトたち」を、私たちは綴るほうがいい。

もちろん、綴ることで心の平坦が得られる人種であれば、なのだけれども。「こうやって日々思っていることを、近い未来のいつか、私たちは確実に忘れ去っていっていまうから」


じつは3月、すこし体調が思わしくなく、上旬から自主的な自己隔離に入っていた。

もしかしたら、自分が感染しているかもしれないと震えること。微熱はない。でも、こういう場合ほかのひとに会っていいのか?と考えること。実家に帰るパターンに想いを馳せること。イタリアの例を見て、そうやって大切なひとを失ってしまう未来に青ざめて、「今は帰らない」という決意を固くすること。

でもやはり心はどこか遠くへ行きたくて、実家ではない何処かへ、と一瞬頭をよぎるけれど、大切なひとは両親だけじゃない。私の、私たちの行動が、誰かを、そしてひいては、守りたいひとを苦しめてしまうかもしれないこと。最悪の場合、殺めてしまうケースだってこの世の中に生じていること。ううん、それが、蔓延しているからこそ、「現在の状況」に陥っていることにきちんと向き合うこと。倫理観を引き締める。これは、一人ひとりの知性とモラル(と経済か……)の戦いでもあった。

そういうことを。そういうこと、一つひとつ。感じて、考えるいまの日々は、きっとひとりで抱えきれるものじゃない。私たちは、心の恐怖の種たちを、吐き出したほうがいい。種を、からだと心のなかで独り育ててしまわないことを、約束して。

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こういうことを、書くに及ぶことは、正直迷った。書いたまま、また下書きに埋もれさせてしまうような気もしたのだ。

でも、公開するのだと思う。私は、何百万人ものフォローがいるサッカー選手ではない。YouTubeで、何千回もの再生を経て、国境を越え多くの人に届けられるコンテンツを作れる人でもない。

でも、何度でも言いたいけれど、地球レベルで見て、これは緊急事態だ。言わずもがなの。明白な。旅行に行けないとか、親に会えなくてさみしいとか、そういう「感情」の話では全然ない。

……あれ?  結局仰々しいことを言っている。

ねえ、そんな日々の中で、思ったことや、感情の機微を綴ること。朝日が昇って、また日が落ちてゆく様を部屋から眺める、そんな時間も悪くないじゃない?  私は世界を旅し尽くして、「もう旅はしばらくいいかな」と感じていた時期だったから、家のおこもりがこれ以上ないほど楽しいよ。そういう、どこか強がりだったり、今だから出てきてしまうことばとか、こうなったからこそ考えが至ったことだとか。

変化のときを、こぼれ落とさずに。生きてみたいと思う。そういえば、新しくギターを買ったの。また旅に出られたときに、世界中の人と一緒に青空の下歌えるように。


いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。