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トイレに紙が無かったら

トイレにはトイレットペーパーが常備されている。

それって、日本で暮らす私は極々当たり前のことだと思っている。

でも、京都のある神社を訪れた時、
トイレにトイレットペーパーが無かった。

切れていた・・・

ではなく、
そもそも常備されていなかった。

理由は何故か、容易に想像はつく。

けれど、トイレの中には、

「トイレットペーパーをご利用の方は、入り口にてご購入ください」

という張り紙がしてくれていた。

え?もうトイレの中なんですけど・・・。

そんな言葉が一瞬よぎり、
でも、バックの中には、ティッシュが入っていたので、セーフww


トイレにはトイレットペーパーが用意してくれてある。
誰かが掃除の時に準備してくれている。

公共の場所でも。

でも、それって フツウ ではない。
当たり前では無いことだ。

自分の家のトイレには、自分でトイレットペーパーを用意するように、

誰かが 手を掛けて やってくれたこと。


海外へ行ったとき、トイレットペーパーを購入するのはもちろんの事、
トイレへ入る時でさえもお金を要求されたことがあった。

どんなに汚いトイレでも、ウォシュレットがなくても。


私たちがフツウだと思っている事は、普通ではない。
当たり前ではない。


実は今、目にする情報さえもそうかも知れない。

SNSを開けば、勉強になることや、共感できることが無数に流れてくる。

それだって、
その方が、すごく勉強して、調べて、実験して ようやく自分のものとして実践しているものかも知れない。


そんな有難い情報がすぐに受け取れる自分になった。
自分が引き寄せた。

スピリチュアル的にふわっと言えば、そうかも知れない。

けれど、そこに何もアクションを起こさず、
自分に都合の良い情報だけ、さらっといただいて、
あたかも自分が考えて生み出したように振る舞う人もいる。

それが、いい、わるい ではなく、
そういう行動をする自分 ということを客観的に見れたなら、

自分はどう思うだろう。

当たり前は、当たり前ではない

そんなことを、京都の神社さんのトイレで教わりました。

いつもありがとうございます。私の言葉が、少しでもお役に立てたら幸いです。