”Si je puis” 〜もし私にできるなら
ふと立ち寄ったクラッシックの名曲喫茶で、置いてあったウィリアム・モリスの生涯を追った図版書を手に取った。
読み進めて行く中で出会った言葉。
”Si je puis” 〜もし私にできるなら
モリスがデザインした植物モチーフのステンドグラスに刻まれている。モリスの座右の銘とのことだが、全く私には響かない。このあまりの響かなさが気になり、ノートにメモした。
座右の銘となれば反応の大小はあってもなんらかの形で響くのが普通で、「なるほどね。確かにそうだよね。」とちょっと賢くなったような気持ちに一瞬なって、言葉は通り過ぎ、すっかり忘れるのが常なのに。
数週間たっても何も響かないという違和感とともに、言葉は私から離れなかった。そんな中、日常を綴るためのブログを立ち上げることを決めた時、この言葉を思い出した。
”Si je puis” 〜もし私にできるなら
言葉を改めて身体で感じてみる。何も感じない。歯科で麻酔をかけた後、何も感じない唇で触れたコップのよう。感じはしないけれど、そこには確かにある。私が麻痺させ感じないようにしてきた何かがある。何かとは何だ。さらに問う。可能性?無限の可能性?その何かにピントを合わせるため、辞書を引いてみる。
ピントが合った。3の潜在的な発展性だ。確かに私の顕在意識に自身に対する期待のようなもの、潜在的な発展性、すなわち可能性は無い。実際にはそれを無い事にし、無視し続けてきた。例えば将来の夢とか、幸せになるとか、自己実現とか。脳裏に過りもしなかった。その結果、見事に可能性に対する感受性は退化し、麻痺することになった。
一方、「Si je puis」を座右の銘とし、起業家として、デザイナーとして、詩人として、小説家として、生活の細部まで薫り高い芸術で満たすことを夢見たモリスの生涯。本を通して垣間見たその圧倒されるような精力的な私とは対照的なモリスの生涯に畏怖の念を抱くのと同時に、夢の実現への切迫感や恐れを強く感じた。
“生活の細部まで薫り高い芸術で満たす”
大仰な言葉のように感じ、一瞬たじろぐけれども、もしかしたら私も同じ事を望んでいないか。そんな世界を求めていないか。
麻痺の向こう側にある可能性という存在に気がついてしまった私は、これからどう生きるのか。そんな日々をこのブログに綴っていきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?