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人間五十年。まだ何も成し遂げていません。

で、あんたいったい誰なの?

ということで、これまでやってきたことを書こうかと思いますが、詳しく書いても興味ないと思うので、ざっと。

プロボクサーライセンス取得:1986年(17歳)

15歳でボクシングジムに入門。17歳でプロライセンス取得。当初、アマチュアでインターハイを目指してましたが、当時のジム会長がアマチュアの試合で判定に不服を訴え、レフェリーと大喧嘩(口論ではなく手を出してました)して、アマチュア出場停止になったから。私も現場にいましたが、たぶん酒飲んでました(おい)。

自分の失態が原因なのに、さらっと「おい、一年間アマチュアあかんからプロ受けろ」って、今から思うと最低ですね。いずれプロライセンスを取りたいと思ってたので「じゃ受けてみるか」くらいの気持ちでしたが、日本の場合はジム移籍等で様々な制約が生まれるので、プロになるときは慎重にしましょう。

当時のウェイトは通常時57~60キロ(今も変わらず)、少し絞ってバンタム級(約53キロ)で、もう少し絞るとフライ級(約50キロ)。でも、普段から体脂肪が少なかったので、フライまで落とすのは相当きつかったです。若い時にそんな減量はマイナスしかありません。ちなみに、基礎代謝が落ちた今でも、体重は比較的自在にコントロールできます。

地方新聞社:1990年(22歳)

当初は地元の大阪支社勤務予定で入社しましたが、入社後すぐに本社転勤を命じられます。あまりにすぐだったので、大阪予定は最初から嘘だったと今でも思っています。

編集部記者として主に市政を担当していましたが、仕事自体は、いわゆる天職ではなかろうかと20代前半の人間が思うくらい、自分に合ってました。ただ、会社組織というものが圧倒的に自分には合わず、ある日、上司と口論した勢いで退職届を出しました。仕事に関することならともかく、プライベートの活動(政策研究会)が会社規定に違反するかどうか、社内で議論するとかなんとか、煙草を吸いながら小難しい顔で言われたことで、バカらしくなったのが発端です。

「違反だとしたらどうなんですか?」と聞くと「君の処分を検討することになる」とのことだったので、「別に間違ったことしてるわけではないので、勝手な処分はお断りします」と、その場で退職を表明してしまいました。さんざんアホバカ呼ばわりされました(笑)。

ただ、最初から新聞記者を目指していたわけではなく、やりたいのは「文章で社会にインパクトを与えること」だったので、会社が変わってもそれを目指せばいいという気持ちでした。

広告代理店:1993年(25歳)

その後、知り合いの某新聞社の編集委員の方などと相談しながら、いくつかの新聞社を検討しましたが、結局、自分は会社員ではなく、いずれ自分で立ち上げて、自分の思うような仕事がしたいんだとわかって、そのためには営業のスキルが必須だと思い、記者としてではなく、新聞社系の広告代理店に入ることにしました。

やはり会社組織は苦手で、社長とは意見が対立することがしばしばでした。忖度も妥協も気遣いも一切しないし、会社行事は当然のように欠席だったので、社長や上司からすると本当に嫌な奴だったと思います。でも、その後、私が独立したあとに、後継者不在に悩む同社の社長から、その会社を引き継いでほしいという打診がありました。さんざん検討した結果、ビジネスと個人的な感情を切り離してお断りしましたが、前職の社長に「君しかいない」と依頼されるのは光栄なことで、それなりの評価は受けていたんだとその時初めてわかりました。

米国留学:1997年(29歳)

広告代理店で4年半ほど活動したあと、米国カリフォルニア州バークレーに留学しました。UC Berkeleyという名門大学の、社会人経験のある人が世界中から集まるコースで、短期間集中してビジネスを勉強しました。

なぜアメリカなのかは、当時広がりだしたインターネットについて、広告代理店時代に新聞紙面15段(当時)で特集を組み、その取材、執筆、営業を一人でやったことがきっかけです。会社の経費で、当時(1995~96年)本屋さんに並んでいたインターネット関連の書籍を片っ端から買いあさり、それを読んでいるうちに「これはえらいことになるぞ」と確信し、勤めていた会社の社長に、「必ずネットの時代になるので、ネット広告部を新設してくれ。自分が責任もってやる」と直談判。

が、「ワシにはわからん。こんなのブームじゃないの?」という反応でした。ただ、その受け止め方が当時は一般的で、一部のパソコンオタクがアーリーアダプターとなっていた程度の状態でした。

それまでメディアに携わっていた私は、ネットの仕事をしたいと強く思ったのですが、日本ではネット企業も学校も何もない。何より、インターネットは米国発で、中身は英語の世界。学生時代から英語は得意で、社会に出てからも独学で勉強はしていましたが、英語も一度しっかり勉強したいという気持ちが強く、行き先はアメリカ一択でした。

文章で社会にインパクトを与える。紙媒体よりもネットの方が、それはやりやすいはずです

起業:1997年(29歳)

最初の起業(学生ビザのままだったので、なんちゃって起業ですが)は、アメリカ留学中にたまたま友人が勤めていたBerkeleyの小規模なデータセンターにサーバを置いて、日本人向けにホスティングサービスを始めました。

そのあとの話は、今後随所に出てくると思いますので、割愛します。

が、このデータセンターを使っているときの話が、自分の中では伝説的に面白いので、一つだけエピソードを。

当時、日本のホスティングサービス(サーバレンタル)は価格が高く(インフラが高かったので仕方ないですが)、アメリカサーバで日本人向けというコンセプトは、とりあえずは正解でした。が、セキュリティの概念も薄く(これは私の話ですが、一般的に今ほどセキュリティ意識がなかったのは事実です)、ある時から海外(中国)からのハッキングに狙われまくって、なんでこんなに狙われるのかと調べてみると、表面からは見えない、深い階層のフォルダにヤバい系(未成年、バイオレンス)のエロコンテンツが大量に見つかりました。ある人物がこれを商売に使っていたので、そこを狙われたようです。

で、現地の技術者がなんとFBIに通報するという事態に発展。ハッキングは連邦犯罪なので、通報するのは州警察ではなくFBIなんです。当然、FBIは責任者である私に連絡してきます。当時、「Xファイル」というドラマが流行っていたこともあり、スペシャルエージェントを名乗る人物とのやり取りは、何とも言えない非現実感でした。

当時、アメリカから一時帰国する日の朝に、車でシリコンバレーの友人の会社を訪問している間に違法駐車の切符を貼られて、でもそのまま車を返して空港に行かないといけなかったので、20ドル程度の罰金支払いをブッチしてたんです。そんな時間ないですから。その後、日本にいるときにFBIから連絡があったので、一瞬そのことか?(そんなわけない)と、ドキドキしたことを白状しておきます。

さらに後年、とある第三セクターにプレゼンに行ったとき、そこの社長の名前にどうも見覚えがあると思ったら、なんとそのエロコンテンツを置いていた本人でした。サーバは、発覚してすぐにアカウント削除しましたが、その時に何度も契約者名を確認して、本人ともメールでやり取りをしていました。よほど言ってやろうかとも思いましたが、そこは紳士的に。

と、かんたんに(長いですが)、社会に出てから起業まではだいたいこんな感じです。起業以降の経歴は、今後随所に出てくると思います。


人間五十年。下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。半分以上生きてきましたが、まだ何も成し遂げていません。


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