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感情を数値化する

3月1日に復帰活動を開始してから早くも5ヶ月が経ってしまった。環境適応能力が高すぎるわたしはなんだかんだいって乗り切っているが、仕事に時間をとられ、noteを読んだり書いたりする時間が圧倒的に減ってしまった。
ダイジなことがあとまわしになるって本当にいやだ。以下は3ヶ月ほど前にしたためたまま放置していた当時の思い。

フラストレーションの原因

復帰から1か月をすぎたころ、産業医による中間チェック面談がおこなわれた。先生は前回と同じデータドリブン先生だ。

そのころわたしはとてつもないフラストレーションをかかえていた。
自由気ままで平穏そのものだった休職生活から一気に生活がかわったのだ。
1時間半以上かかる長距離通勤、トイレ掃除や下着の洗濯などの介護、そしていやになって逃げだしたはずの環境下での仕事の再開だ。不満がたまるまでそう時間はかからなかった。

しかしフラストレーションの最大の原因はコミュニケーション不足だった。復帰後は無駄なコミュニケーションは取るまいと、わたしがもっとも得意と自負していたコミュニケーションをわざわざ封印したのに、それがあだとなった。
いや、そもそも真のコミュニケーション能力をわたしは有していなかったのかもしれない。

復帰後まずはじめたのは、キャッチアップをかねた自部署の理解や開発中の自社サービスについて資料を読み、気づいた点や改善点をアウトプットすることだ。望まない仕事をさせられるくらいなら、と自分から無理なくできそうなことを提案してリスク回避したようなもんだ。

時短勤務の時間で資料を読み込み、アウトプットまでもっていくのはなかなか大変ではあるが、休んでいたかはこそ発見できる部分に期待している、と言われたこともあり、時間内にそこそこに仕上げ、業務終了報告とともにファイルをチャットアプリにアップし新上司に提出した。

初回のアウトプットには新しい上司から丁寧にフィードバックがあり、それなりに有意義なディスカッションもかわした。
ところが翌々日くらいから上司からの詳細フィードバックはなくなり、それ以降はファイルをアップしても、「おつかれさま」コメント、または「いいね」ボタンがつくだけになった。

なにか、物足りない・・・

わたしは何らかの反応がほしかった。
無駄なコミュニケーションは取りたくないけれど、それでもここに自分の居場所はあるのか、まだ社会で機能できるのか、気付かぬうちにそれを探っていたのかもしれない。
何か言ってほしい。みてほしい。大丈夫といってほしい。
いろいろな「ほしい」という感情がむくむくとわきあがる。

時々こそっと課長や組織への不満を日報に書き散らしてみたものの、無反応。

相手は課長だ。
喫緊でもない課員の日報に目を通す時間も余力もないのだろう。しかし毎日誰の目にも触れない、何の役にも立たない資料を量産するほどむなしいひまつぶしはない。

上司の「いいね」マークの意味が「いいね!」なのか「まあまあだね」なのか「ノーコメント」なのか「読んだふり」なのか分からず、わたしのイライラは頂点に達していた。そして産業医面談では「待ってました」と言わんばかりにその不満をぶちまけた。

「別にいい」わけがない

面談では聞かれる前に用意していた内容をこちらから話し出した。

【生活全般】
・睡眠の質も量もだださがり。でも別にそれはいい。
・運動量も激減。通い始めたジムにも今はいけていない。別にいいけど。
・親の介護が重なって大変。仕方がないけど。
【仕事全般】
・通勤はきつい。テレワークだとラク。
・仕事の内容は割と自分にあっている。嫌いではない。
・上司は日報をかこうが資料を提出しようがみてもいないし、返信もない。
別にいいけど。日報にリクエストを書いてみたけどそれにも反応がないので本当は読んでいないのだろう。別にいいけど。

ほぼ一方的に話し終えると、産業医はわたしに切り出した。

「『別にいいけど』と何度もいってますけど、全然いいと思っていませんよね。これはとってもよくない状況ですね」

図星だ。

そうなのだ。
全然別にいいなんて思ってないのだ。本当はこれっぽちも課長の「お忙しい立場」に理解なんか示す気なんてさらさらない。

自分のアウトプットに関してはみてほしいし反応してほしい。反応がなければただの自己満足で終わってしまう。そして評価がなければ改善も次のステップもみつからない。
そう、わたしはコミュニケーションをとることで次にすすむための道標がほしかったのだ。

一方的な思考に陥っているわたしに産業医は言った。
「復帰後の社員対応は構いすぎても構わなすぎもダメなんです。今までどおり、普通が一番です。
たまこさんは今の仕事内容を10点満点で評価すると何点くらいと感じてますか。もしたまこさんが5点だと思っていても上司の方は8点と思っているかもしれないし、2点と考えているかもしれない。
『察して』と思うのはよくないです。上司も人事のプロではないので言わないと分からないことも多いです。自分から歩み寄る努力もしましょう

目が覚めた。
たしかにその課長とはほぼ初めましての関係だ。なにがお互いの普通なのかわからない。
わたしだったらがんばって復帰してきた社員の日報には目を通したい。でも彼は合理主義で優先順位のひくい資料には目を通さないのかもしれない。

わたしの価値観だけ相手に押しつけるから不満がたまるのだ。
そうだ、対等になるためにまずは相手とわたしの感覚を数値化しよう。

コミュニケーションのずれを数値化する

わたしはさっそく産業医の話を応用し、アンケートをつくって課長に手渡し面談をおこなった。

予想通り、コミュニケーションの〈質〉の項目で評価に隔たりがあった。

わたしの評価 3
上司の評価  7

彼は、毎日チャットで挨拶しているし何をやったか日報をもらっているので自分としてはほかの部下よりずっとコミュニケーションがとれているので7をつけた、というのだ。

そう、彼は「自分は報告を受けて把握できている」からご満悦なのだ。わたしが彼を把握できていないことに気づいていなかったのだ。
わたしは「わたしは不満です。ボールをなげてもなげてもただ吸収され、消えるだけで手ごたえがない。ちゃんと打ち返してほしい」とフィードバックがないことの不満を伝えた。

ただ、これは誰が悪いとかではなく、単にコミュニケーションの仕組みが間違っているのだ。中間管理職が期末期初で多忙を極めていることも承知している。
ということで、リハビリ期間中(復帰から3ヶ月間はリハビリ休職期間)だけでもお互いの負担にならず、かつ効果のあるコミュニケーションの仕組みをつくりましょう、という提案をしたところ、彼は快諾してくれた。

その後、彼は業務開始&終了報告の挨拶にひとこと加えて返信をするようになり、日報は週報となって週イチで対面報告することにしている。

自分の妄想に疑問をもつ

頭のなかで勝手に悪い妄想するのはわたしの悪い癖だ。
第三者の立場なら客観的に判断できることも、自分が主役となると冷静さを欠く。個人的対人関係、こと対男性となるとやりすぎなほど危機管理能力を発揮し、予防線をはって傷つくことから逃げることがある。
休職の間もさまざまな男性とご縁もあったが全部続かなかった。久々の家族との共同生活が苦しいのも相手の価値観を否定しているからだ。

ことテキストコミュニケーション全盛期の今、勘違いや捉え違いが多発し、誤解も増える。
仕事にしてもひととの関わりにしても相手に思いを遣る想像力はとてつもなく大切だ。でも想像におぼれて俯瞰できなくなるとそれは逆効果。
察しが悪いと思われようが色気がなかろうが、ビジネスライクに誤解を解き、感情のねじれを修正し、悲観的妄想に時間を費やすのはもうやめたいと思う。


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