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そんなこんなで、涙とともにスタートした休職から1年と3ヶ月、そしてnoteをはじめてからちょうど1年となった。

この一年、早かったか遅かったかといえば、本当に早くも遅くもなかった。
働いているときは、もう1年なんて光矢のごとく飛びすぎていったけれど、今の心境は「もう一年」でも「まだ一年」でもなく、ただただ、時間とともに過ごした、という感じがする。

だからいつも年末がせまってくると感じていた
「ああ、また一年たっちゃった。またこの一年何もしなかった」
とか今は思わない。

この一年でなにがかわったのか。なにを決められたのか。

得たもの

結論からいうとこの一年で、何もかわらなかったし、なにも決められなかった。決まらなかった。

これからどうやって働いて=生きていこうか。

いろいろ得意の妄想で無数のシミュレーションはしてみたものの、どれもこれも妄想止まりだった。

なにか「これだっ」てものに出会えるかもしれない、なにか新しい道がひらけるかもしれない。

そんな淡い、いや過大な期待を描いてやみくもにボランティアや勉強にも励んでみた。

●やってみたこと代表例

✅ 国際機関の営業ボランティア
✅ 文章教室に通う
✅ 英語の試験を受け続ける
✅ 自転車ひとりたび(東京〜伊豆半島一周)
✅ 本屋さんの店主代理
✅ 日本語学習ボランティア的なもの
✅ キャリアカウンセリング的なもの(行政版)
✅ キャリアカウンセリング的なもの(酒場版)
✅ 金髪デビュー
✅ 自転車事故(不測の事態)
✅ 海でおぼれる(不測の事態)

要はこども、あるいは大人になってから気になっていたキーワードを思い出したものや、知り合いから声をかけてもらったものは行動してナンボと、興味があったものだけ片っ端からやってみた(まあ暇ってのもあるけど)。
なにかやっていたら気づくきっかけになるかもしれないと思っていた。

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気づき

実はこいつがクセモノだった。
わたしなどは「気づきたい」って焦っていると、なんでも意味があるように考えようとするからいけない。よく「気づき」が大事って世の中の本にもあるが、頭で考えるとただの「気づいたふり」にしかならないものも多い。
結果、ハラ落ちしてないから「気づき」の山に埋もれ、結局出口がわからなくなる。

「気づき」よりも、「ひっかかり」のほうが大事な気がした1年だった。
「なんかひっかかる」って感じるものだから。気づきよりもっと手前にある気がする。
なぜひっかかるのか、じっくり考えて言語化した先にハラ落ちする「気づき」があるように思う。

今まで忙しいことを言い訳にして、感じたことを思考の外に追いやり、考えてるフリして何も考えてなかったんだな、と思う。

でもわたしはなんだか満足している。

結局、あーでもない、こうでもない、とか、あーこれじゃなかったとか、これでいいのかなあ、と思い悩みながらすぎていく日々を受け入れる。人生ってそれが面白いんだろう。

毎日「気づき」をほりおこし、神仏に拝んでさえいれば
「あなたの使命はこれですよ」
なんて天から啓示がおりてくるわけがないのだ。

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Reborn宣言

ところで去年の大晦日、わたしは決意していた。
「人生にいっぺんの悔いなし」と言える選択をする、と(漫画のセリフだそうだ)。


休職終了宣言のその後だが、産業医のひとことでまさかの延期となってしまった(詳細は今度書くつもり)。
復帰するしないの選択権はもちろん私にあった。
面談直前まで、その翌日には会社復帰をするつもりで半年先の段取りまである程度組んでいた。
けれど、やんわり?産業医に断られたのを逆手にとって利用することにしたのだ。

社会的身分の復権がまた先にのびてしまう不安やいらだちもあったけれど、2021年12月31日現在、わたしは自分の選択に一片の悔いもないくらい満足している。
もちろん不安やさみしさもあるけれど、それもひっくるめての満足感。

2021年が休息の1年だったとしたら、2022年は再生の1年となるはずだ(希望的観測も含む)。

2022年の幕開けが待ち遠しい。

※写真は「半分青い」空と明治神宮、屋久島の虹(全部今年の写真)。

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