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”幸せになる覚悟” ・・・ある?笑 ”こじらせ隊”の厄介なドラマクィーンが作り出す世界には、こじれるドラマが連日繰り広げられる。


量子力学とやらの研究によると、どうやらこの世の物体や、出来事・事象等はすべて、

”自分が意識した瞬間に形成され始める ”

ってことらしい。

つまり自分が意識していない間は、物質としても出来事としても事象としても存在すらしていない。

“ある”と思うから、そこに形成され始めるし、”ない”と思うから、現われへん。

つまり世界は「自分の認識次第」で、”ある”にも”ない”にもできるってこと。


「あるある!絶対ある!」と言いながら、意識は「ないからこそ、ある状態になりたい」と思ってる。

それはすなわち「ない」という意識を集めて、形成してることになる。


ほとんどの人が、「欲しい」「なりたい」「行きたい」「得たい」みたいに願ってるけど、それらすべてが「ない」という意識を裏返した表現である。

だとしたら「ない」という意識を放ってるから、「ない」が形成される=ない状態が続くことになる。

”ある”を求めて願ってることがすべて、残念ながら”ない”につながってしまってる。



私たちが見聞きするものすべては、“自分の認識”というフィルターがかかっていて、そのフィルターを通してすべてを判断してる。

もっとわかりやすく?言えば、「目の前の事象を、自分専用サングラス&ヘッドフォンを通して見聞きして、それが真実だと信じ切ってる」ってこと。

でもよく考えてみれば、何かの出来事や事象などを「これは絶対に〜〜だ!」などとは言いきれへんはずで、それを疑うことなく信じてるのは、「自分のフィルターが100%正しい」と譲らへん頑固さである

100%正しいと言えるのは、「自分はどう感じてるか?」「自分はどうやって認識したか?」ってことだけ。

「私がこう感じたんだから、これがすべてであり、これが真実だ!」「私の認識が正しいんだから、私が〜〜と言ったら〜〜なのよ」って信じてるものは、絶対ではないってこと。


自分の身に起こる様々な不幸や理不尽な出来事、目の前で理不尽な振る舞いをする誰かが、なんとか変わってくれるのを待ち望んだり、好転させようとする願う努力は、【縁木求魚】である。

【縁木求魚】えんぼくきゅうぎょ
木によじ登って魚をとろうとする意から、方法が間違っているために目的を達するのがむずかしいこと。また、やろうとしても絶対に不可能なことの例え。


出来事そのものや、自分以外の他人を変えようとするから、すべてが徒労に終わり、気力も体力も使い果たして、辟易することになる。

だったら、「目の前の事象を真実だと信じ切るために使ってる自分フィルター(サングラス&ヘッドフォン)」の方を変えればええ!


目の前の出来事や事象や他人が、自分を傷つけることは不可能!

自分を傷つけてるのは、出来事を「自分が傷つく認識にしてしまうフィルター」を通して見て、それが真実であると信じたから。


私は、このことをまず徹底的に頭(頭脳)で理解してから、その後感情面に落とし込む作業を、延々と続けた結果。

「出来ることなら私の手で、この世から抹消したい!もう二度と会うこともない!私と息子の人生に関わらないでいただきたい!」

と思ってた、カナダ人元夫との関係がいつの間にか、”四六時中同じ空間で過ごし、たくさんの話をして、お互いがお互いにとってええ距離感の心地ええパートナー”に変貌を遂げた。

今思うと、「関係修復なんて絶対に不可能やし、そもそも関わりたくもないんやから、その努力と時間がもったいないわ!」って意固地になってた過去の自分は、そうすることが自分と息子の幸せへの近道やと信じてたけど、実は「幸せを実感して生きることにあらがってただけ」やった。笑

幸せを望みながら、実は幸せを感じて生きることに、メリットを感じてへんかったってこと!



すべては自分の”思い・ 感情・信念次第”やと腑に落ちたら、自分の言葉使いも態度も表情も、すべてが自分を苦しめてる根源になるし、自分を喜ばせ、楽しませるツールにもなるってことが、手に取るようにわかり始める。

この世は自分の思いでできてる!自分しかいない世界であり、現実とは自分の意識(思い)によって形造ったものである。


”自分が意識した瞬間に形成され始める ”

自分の意識があってこそ、自分が見てる目の前の世界は、自分の現実として形作られて成り立ってる。

すべては自分に起因してる。

良い悪いではなく、善悪でもなく、違法か合法かでもなく、はたまたそれらを裁いたり罰したりする努力も必要なく、自分が見てる世界は、自分の意識次第で自由自在に変貌を遂げる。

それが一瞬のうちにだって起こり得る。

だったらミラクルは、わざわざ起こすものではなく、日常目の前にある出来事すべてが、ミラクルの連続やな。



「幸せになろう!幸せになりたい!」と常に意識してるけど、なぜそれが形成されないんですか?

「意識してる」=考え続けてる

ってことに置き換えがちやけど、この場合の「求めるものが形成されるために放つ意識」とは、頭で考えることよりも、のほほ〜んと穏やかで平和な気持ちが、じゅわ〜ッと湧いてくる幸せを、実感する感覚を放つっていうた方が、近い気がする。


「ああ〜幸せやな〜」って感じる瞬間も、人それぞれ違うんやから、自分にとっての幸せとはどんな状態でどんな感覚なのか?ってことを、具体的に知る必要がある。

「幸せになりたい」といつも思ってても、「それがどんなことで、どんな状態で、幸せな自分はどんな風に感じるのか?」ってことは、具体的に考えたこともない人が多すぎる。

カーナビに「とにかく幸せっていう目的地に連れてけ〜」って無理な設定を強要してるようなもんやねん!

そりゃカーナビも「知らんがな」っていうわ!笑笑



実は、自分で勝手に傷ついて勝手に悲しみに浸りたがる、”こじらせ隊”の厄介なドラマクィーンが作り出す世界には、こじれるドラマが連日繰り広げられることが、「幸せ=心地よい状態」になってしまってる。

これが続くと、こじれまくるドラマ展開で、自分がドラマクィーンでいられることで幸せを感じるんやから、平穏な毎日なんて退屈でしかない。

ドラマには当然、「自分を傷つけてくる役」「自分を悲しませる役」の存在が必要で、自分を傷つけ悲しませるように仕組んでるように見せかけて、実はその加害者の存在も「自分である」っていうカラクリ。

これがわかると、フッと肩の力が抜けて、顔がほころび、笑えてくるから不思議。


『この世は、自分しかいない世界!』

に当てはめれば、自分を傷つける加害者も、自分が作り出してるに過ぎへんから、受け身など存在せぇへん!

これをうわっつらで理解すると、

「家族だっているし、友達や近所の人や、お店の店員さんだっている。私ひとりであるわけがない」

となって、辻褄が合わずにモヤモヤが増す。笑

腑に落ちたかどうかは、『この世は、自分しかいない世界!』って言葉が、「ほんまにそうやな〜」って実感できるかどうかでわかる。

ついでに言えば、「こじらせ隊のドラマクィーン」をやってきた自分が、小っ恥ずかしくて、穴があったら入りたい〜!って、しっかり我に返る瞬間を体感できる。

そこからは、厳寒な冬の世界の見るもの触れるものすべてが、氷から解けていく魔法を得たような・・・。触れるものすべてを凍らせる、アナと雪の女王のエルサの逆バージョン世界を味わえる。笑


”幸せになる覚悟” ・・・ある?笑




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