同性愛者は同性愛者ではない
愛されたい欲求
〇〇好みの俺
俺が
こう言えば
こう振る舞えば
〇〇は俺を愛してくれる
これを解離
もしくは恍惚=エクスタシーと呼ぶ。
汝になった我
好かれたい誰かになった
統合されないバラバラな自己
その「愛されたい」欲望=毒気
による自己の解離を
英国詩人ジョン・ダンは殺人と呼んでいる
なぜなら、
愛の毒気、
愛されたい欲望により
自己はいつの間にか
思考まで
他者に中毒的に犯されてしまうからだ。
自己がないからこそ誰にでもなれる。
Aちゃん好みの自分。
Bちゃんが評価する自己を
それぞれに振る舞う。
自分が自分であるという
確固たるアイデンティティ(自己同一性)が強固な人は
誰と何処で何をしていても、
どんな状況であろうとも
過去ー現在ー未来へと
一貫して自分は自分であるという感覚を失わない。
つまり多面性や揺らぎが少ない。
一般的に他者が
あのひとはそのように振る舞うものだ
という期待を裏切らない。
あの人が
吹っ飛んだ裏切りをするなんて
あり得ないと信じている通りに
振る舞う。
それがその人だからだ。
しかしながら、解離している人は
自分がないからこそ、
Aを喜ばせる行為が
Bを傷つける行為だとしても
想像を絶する行為が平気にできる。
その時々は
Aであり
Bであり
根底に一貫した自己と
過去ー現在ー未来へと一貫した時間の流れ
が欠落しているから
なんだって可能だ
ある時はAになりきってる
本人の中に人格が複数ある
つまり誰かに乗っ取られている
つまり中毒状態=解離
という現象について
本人が
認知できていれば良いのだが、
多くの場合気づいておらず
(だから 解離)
「ありのまま」の自分のつもり
「○○さん最近なんかおかしいよ」
指摘されても
自分は
自然な自分
ありのままの自分
だと思っているので
指摘する相手が不自然なことを言う。
自分を否定してくるネガティブな相手としてしか捉えられない
つまり
自分に嘘をつく自分が
ありのままの自分
自分に嘘をついているということを
分からない
分かりたくない
ルソーが幼児期に受けた懲罰が
解離を誘発し
脱自的 自己の不在の中で
・罪人としての私
・罪なき透明な私
への分裂が起き
その中で
・あるものと
・あらざるもの
の境界が宙吊りにされ
理想的な脱自状態が
夢想されると言っていたのがこのことだ。
社会的に
「いいね」をもらえる自己であり続けたいのだ。
そのため
ルソーは
あれほどまでに自分に良くしてくれたヒュームを悪魔的に裏切ることができたのだ
この以下のnote
勉強になりました。
カミングアウトしていない
同性愛者は
多くの場合
同性愛者である自己を
ありのままの自分
であると認知していない
つまり
同性愛者は同性愛者でない
自己を
同性愛者だと認めていないそうなのだ
同性愛者ではない自分
が
社会的に
なりたい自分
=ありのままの自分
なのだ。
だから
「同性愛者では?」
との
ありのままの指摘をこそ
彼らは
ありのまま
を否定されたと認識する。
多様性を理解しよう
みんな違って
みんな良いなんて
マジョリティの偽善
ヒュームは皆
自分の理解できる範囲内で
あるコンセプトとコンセプトを連関し
一つの物語を作る。
そんな想像力のなせる連関の束こそが
そのひとの個性だと言っている。
つまり
皆
自分の心の中で
ある一定の理解=秩序が欲しい
ただ
一人ひとりの想像力には限界がある。
同性愛者たる自己が
同性愛者である自己を認識できない
なんて
解離を理解できるひとは少ない。
気持ち悪いなんて思わない。でも同性愛者ではないかとその兆候を感じた時、どうすれば良いのだろう
理解なんてされたくないのだろう
頭で考えてなんて欲しくないのだろう
今から30年以上前
愛したイタリア人の男の子 フランチェスコ
には
彼(A)がいて
その彼と喧嘩の真っ最中
私はイタリア シチリア島
パレルモにいた。
新しい男(B)とAの
どっちがカッコいいかと
Aに泣かれ
おメメ パチクリ状態💦
どっちもカッコよかったけど(笑)
どうでもよかったんだよ
私もフランチ 好きだったから(笑)❤️🩹
理解できますなんて言ってない
ただ 分からないんだよ
Aがいいとか
Bが渋いとか
なにがなんだか
同性愛ってなに?
なんで同性愛?
シルビア
綺麗な女性なのに
めっちゃ仲良いのに
ただのお友達ってなんで?
って
フランチや
フランチ家族の話を聞くしかなかった
聞いても
分からない
そりゃそーだ
私はフランチェスコじゃないんだから
でも
フランチはいっぱい話してくれた
自己を出産してその出産で死んだお母さんのこと
満たされなかったお父さんとの関係
お父さんの愛人のこと
だんだん
フランチェスコの気持ちになって来た
わかって来たら
もっとわかんなくなってきて
喧嘩した
イタリア語も
パーティパーティ🎈になってくると
疎外感
中に入れば入るほど
近づけば近づくほど
疎外感を感じ
心が離れていき
もっと
フランチがわからなくなった。
あれから30年
近いうちフランチェスコは
来日するそうな
楽しみだ
性的な嗜好ってAVビデオの物語の多様性以上に
現実は奇なりなんだろう
私は
でも
フランチが過去に
こんなやんちゃしちゃって
とか聞いても
そうなんだって思える
それを愛と呼べば
怒られるのだろうか?
理解者ヅラしてると言われちゃうのだろうか
少なくとも
フランチは私を信じてくれているし
私はフランチを信じている
それを友情や愛と呼ぶことも
偽善なのだろうか
誰かを知ることって
なんだろう
愛しているから
フランチェスコを知りたかった
愛しているから
フランチェスコも
私に彼を知ってもらいたかった
だからいっぱい話した
偽善とかわからないけど
それだけなんじゃないのだろうか
「正欲」ってこわい言葉だけど
重い言葉だ。
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