レオナルド・ダ・ヴィンチと聖母の「穴」

 レオナルド・ダ・ヴィンチには聖女の微笑みを美しく描けても、悦楽する娼婦は生生しく描けない。彼は「女」を「聖的」に求めはしたが「性的」に抑圧したからだ。レオナルドによると「ひとはそのものの本質を徹底的に認識してしまわないかぎりは、あるものを愛したり憎んだりする権利をもたない」つまり彼は情熱的に愛することも憎むこともせず、代わりに、正しく愛すること、憎むことを探究し認識に徹底してしまったのである。したがって、レオナルドの情動は抑制されていた。レオナルド自身の言葉を借りると「無数の原因に満てる」自然の偶然と必然の神秘=真実に理性的に立ち向かったのであり、そんな彼の勇気こそが彼の芸術作品なのである。(フロイト 「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」)フロイトはそんなレオナルドの抑圧された表現にレオナルドの人生のロマンを見た。ロマンとは自然の生生しさのなかに在り、決してロマン主義のなかにはない。

 生後数年で突然に離別させられた実母の永遠の喪失へのレオナルドの悲哀が彼の中に凝縮した母子間の性愛的口唇的関係への憧憬の記憶を生成し、それが彼の芸術作品誕生の偶然となり必然となった。恋愛とは欠如=空腹を「母性的」他者から栄養としてもらう食人=捕食行為であり、永遠の授乳行為、つまり「口唇的」または「食人的」に他者を取り込み同一化する意義を本来もつ。「饗宴」でプラトンは「貧困」だけがエロス(l‘Amour)を妊娠させることができるというように「性的な活動がまだ栄養物の摂取と分離していない」幼児期に母親またはその代替的人物への激しい恋着を忘れ得ぬ者は男性も女性も「女性」「性」を恋慕し続けることとなる。(フロイト 「性理論三篇」)

 そして母たる者、子を慈しみ愛撫し続けずにはいられない愛溢れる存在。赤子が泣き叫ぶと夜中でも飛び起き、乳を咥えさせる。乳に必死に吸い付きながらもホッとしたのか眠りに落ちるそんな愛する我が子の赤子の頃の顔を忘れられる母などいない。幼年期の最も可愛い時期にレオナルドのもとを去らねばならなかった彼の母も我が子への限りない愛撫や抱擁が禍となり、その喪失の苦しみがこれほどの芸術作品を生み出すことになるなど想像もできなかったであろう。レオナルドを見つめる母の優しい微笑と抱擁を受ける子の「寄る辺なさ」(フロイト「制止、症状、不安」)聖母誕生の所以がレオナルドのそんな苦しみにあった。「初恋は決して忘れられない」のである。(性理論三篇)

「女」とは一体なんなのだろうか?

「愛するところでは欲情せず、欲情するところでは愛することができない」なんてフロイトは言うが、確かに、肉欲と愛は矛盾しているかのようにも思える。聖女は近づきがたく、娼婦との愛の関係は長続きしない。(フロイト「性愛生活が誰からも貶められることについて」)フロイトによると、それはひとが「自分の母、父、家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象X」をナルシシズム的対象として選択を行い、恋に陥るゆえに起きる矛盾だそうだ。(ジャック・アラン・ミレール Les labyrinths de l’amour)「手を握ることが出来れば、闇の中でも安心」母=情愛対象を思い出させる聖なる女性とは官能対象として禁じられている、越えてはいけないタブーのように感じてしまう。(性理論三篇)というのも男の子も女の子も口唇的に母親に恋着しており(フロイト「女性の性愛」)相姦的対象を思い出させる存在には「制止」がかかり「不安」になりインポテンツ 勃起不全、不感症などの問題が付随する。(「制止、不安、症状」、「性理論三篇」)「母」とは越えてはいけないタブーであり、そのタブーを越えると自らがタブーとなる。子どもはその者に同一化し、母(女)となり自己を喪失する。フェティシズム(下着、靴など)とはその手前の母の代理物、同性愛に陥る手前にしがみつくことが可能な最後の砦、それを越えると自らが見せかけのフェティッシュ=代理物(母=女の代理)となりタブーとなる。

 すなわち男女とも両性にとっての永遠のタブー=「他」性=異性とは「女性」という性であり(ミレール The Axiom of the Fantasm)「おのれの性が何であろうと」皆が「女性を愛する」ことに帰結するということが分かる。(ラカン レトゥルディ、AE467)近未来は皆が女性化した社会になると未来予測した中国のSF小説のことを別稿で書いたが、予見力とはまさしく現在を正しく見る力であると言える。「愛するかわりに研究する」ことを選んだレオナルド・ダ・ヴィンチは「預言」において、聞いているが聞いておらず、見ているが見ていない当時の教会権力者の批判を痛烈に行っている。(レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出)コペルニクスには沈む太陽は見えず、回っている地球が見え、昔の人が悪魔と天使の仕業に見えた現象は現代人には原子と電磁波の世界に見えているのだ。男も女も皆が女性を愛していることを発見したフロイトやラカンも、近未来には皆が女性となる社会をSF予測した「三体」のSF作家 劉慈欣も天才だ。ケインズだって「孫たちの経済的可能性」(1930)で労働の女性化を暗に示唆していた。

 なぜフロイトやラカンが性に関係なく皆が女性を選択対象とすると説いているのか。男性の異性/同性愛者、女性の異性/同性愛者と分けて考察しよう。
①    男性の異性愛者は女性を愛する
②    男性の同性愛者は元来、女性(母親)を愛しすぎたがゆえに母を同一化し自らが女性となり彼の母が愛したあの少年=かつての自分=男をナルシズム的に自己愛する。そして、その男性への愛は「女性からの逃避」(性理論三篇)を引き起こす。

「彼が少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はこうすることによって…彼をその性的義務にそむかせるかもしれぬ他の女たちから逃げ廻っているのである」そして女に魅かれたときでも「母に忠実」であるために「彼はそのつど急いで、女たちから受けた興奮を男の対象に移」すのだ。(レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出)このように、母を愛しすぎて「初恋を乗り越えられない」がゆえに「病むことなき女性からの逃避」を続ける男性の同性愛者ほど「母に忠実な者」はおらず(性理論三篇)、記憶映像の中の母に対しての「まさに男性性の保持という関心」のために「男性性の一切の発揮が妨げられ」女性に積極的に行動して失敗した時の不安から男性的/能動的に行動できず、受動的/女性的態勢を選択するようになる。(制止 症状 不安)

③    女性の同性愛者は父に寵愛を受けた母(女)に同一化し母類似(当時の母の年齢など)の女性を愛する。(フロイト「女性の同性愛の発生の一事例」)

④    女性の異性愛者は男性を愛しているようにみえるが、女性は実は「愛するより愛されたい」。(フロイト「ナルシシズム入門」)この条件を満たす「愛してくれる」男性だけを受けいれる自己愛を満たす女王様こそが「女」なのである。

 結論として男性も女性も皆が女性(性)を愛しているが、その愛する理由は愛する対象(女性)の内にはないことが分かる。(ドゥルーズ 「プルーストとシーニュ」)つまり、ラカンがいうように「女というものは存在しない」。(Conference in Geneve)女とは「空虚」な「場処」(ジャック=アラン・ミレール Des Semblants dans la relation entre les sexes)であり埋められるべき「穴(Trou)」、男にとっても女にとってもトラウマ(喪失)=穴の原因であり失われたが故に憧憬される欠如=存在=「神の別の名」(ラカン セミナール23)。「神」とは「男性の神々によって代替えされてしまうが」本来は母という「喪失」=「穴」が「神」なのだ。(フロイト「モーセと一神教」)つまり「女」の存在理由は「女」という対象そのものにではなく、欲望する側の「欲望原因」の「欠如」の内にある。(ラカン)

 このように性(セックス)とは先天的に生得、決定される遺伝的気質ではなく、家族関係の「諸関係の累積の歴史」の中で後天的に生成される相対的な「ジェンダー」であるということを発見した科学者がフロイトでありラカンである。(バトラー 「問題=物質となる身体」)母に性愛的な色合いを帯びた恋慕を抱き母―息子関係を反復させる男性同性愛者は母を愛しすぎて自らが女=母となり少年を愛し同関係(母(自分)→息子)を再現し続け、また、父に愛された母を求愛し続けた女性は自ら父のポジションをとり母類似の女性との関係(父(自分)→母)を強迫反復させる、そんな「関係の歴史」をジェンダーと言う。

 ChatGPTに私の文章を入れるとAIはわたしを「彼」=男性と判断してきた。しかし、私は「女」である。女に生まれ、恋愛して女になり、女として終わりかけていると言えよう。結局、恋愛とは何なのだろうか?女は上記④のように自己に愛と金を貢いでくれる人を愛し、男性もまた自己の欲望原因=欠如=「母」類似の女を自己を失いつつも愛し続ける。恋愛とは自己を失いナルシシズムを低下させる自信喪失行為にもかかわらずである。(ナルシシズム入門)つまり、恋愛とは男性にとって自己を喪失させながらも過去の喪失=穴を埋めようとするエンドレスな行為。したがって対象が手に入ると新たな対象を求め続ける。つまり男にとって女とは資本(金)と同じ際限のない欲望の先延ばし行為=剰余享楽に過ぎないのではないかと思えてきた。なぜなら彼等は母に決して到達しないのだから。(ラカン)しかし、男も哀れな存在ではないか?男性も女性も皆、女性を愛するからだ。つまり男とは母以外の誰にも愛されないということになる。

 女が女という自己を愛する自己愛的存在であり、男が母以外の誰にも愛されないにもかかわらず母を模索し女を愛し喪失し続ける存在であるならばいずれ男は男として存在し得なくなる。女に愛され自己愛の充填ができないからだ。つまり、ラカンの公式「女は存在しない」のみならず「男も存在しない」と言えよう。ならば、男女という欠如体同士は恋愛に於て互いの尻の拭い合いをしているにすぎないのではないのか。フロイトによるとその喪失された自己は愛されることで、そして愛する対象を所有することで回復されると言う。(ナルシシズム入門)しかし資本に同じで欲望にはきりがない。対象を所有すれば破壊し次から次へと永遠に還りつくことの出来ない母へと欲望の先延ばし。せめてミダス王が触るものを全て金に変えて愛する娘も喪失したような愛の喪失のエンディングは迎えたくないものだが、もともと無いもののさらなる喪失もない。

 きっと、ひとはラカンのいうとおり持っていないものを求め、持っていないものを与えて欲しい。(ラカン「転移」)欲望を先延ばししたいだけなのかもしれない。(ケインズ)そして我々は気付かねばならない。ソクラテスが無知の自覚を求めたように、自らの「持っていないもの」=欠如を知らねばならない。聖母とは喪失された「穴」(トラウマ)なのだ。そしてその穴埋めを相手に求め続けることは愛ではないことに気付かねばならない。愛とは持っていないものを求め、そして持っていないものを与える行為なのである。


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