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家事=オイコノミア(エコノミア)=「我思う」

2015年「火花」で芥川賞を受賞したピースの又吉直樹さん 身近なテーマを「オイコノミア」という様々な視点から考察していく情報番組をご覧になられた方。またはこの書物をお読みになられた方はおられるだろうか。オイコノミア=エコノミアとは「家」モノの見方=視点を意味する。

主体🟰世界 フィヒテ
世界🟰主体 スピノザ
この視点の2解釈は世界が逆立ちしている。
何が正しいのだろうか?
主体とはあるのか?
みんな違ってみんないい?
主体の後に誰が来るのか」という問い
この問いは無効である
「何も主体の後には来ない」

何故なら
主体とはまさに
後から来る者」だから
ツァラトゥストラのように
「そうあった」を
わたしがそのように欲した
          (ニーチェ 第二部「救済」)
つまり
終わりを始まり」とするのだから
何でもありだからである。
(ランシエール 以下引用は全て「主体の後に誰が来るのか」より)

オイコノミア とは
経済学(エコノミア)のもととなる語である。
住まいの法であり
家計、家の経済学であり、
家政、家の倫理=
我思う」の原点である。
家事とは様々の知の形式の相互関係であり一つの限界づけられた連鎖の原則。それは開かれており閉じられている。家だから…そこで問いかけは存在しない。「家事はただ行われる」

経済学に愛=気遣い=家を入れて考察し直さないといけないのだ。

家事(メナージュ)
若夫婦(ジュヌ・メナージュ)
家事とは一つの関係であり、家が変われば全ての配置、取り仕切りの経済学も家政法則も変わる。そこで「何故」はない。
「ヘスティア」(Estia)=家政婦 
存在する(Etre)
ヘスティアは気遣い=整備する=メナージュ=マネイジメントする技術性、一つの真理の探究方法

家とはヘーゲルの弁証法=国家=法が取り仕切られる場であり、ラカンの王ー臣民 一つの小さな交換の場の始まりであり、始まりの政治体、神話世界の「神秘体」、ヴィトゲンシュタインのいう「家族類似性」予め方向の定められたハイデガー的テクネ=言語ゲームのオリジンの場なのだ。レヴィ=ストロースが発見したように近親相姦とは最も閉鎖的な交換=タブー=秘密 そこでは何であるかは既に問われず、予め答えられている。それは一つの知性化されない一つの「美」=「共通感覚
「私の意識=良心、それはフューラー(総統)である」
                 byゲーリング
          (ミケル・ポルク=ジャコブセン)

「感覚の共通性は秘密の共通性、つまり部分に分けられ、切り離され、分割され、ラテン語で se -curus(心配ない、安全な)と言うように、関心(cura)を免れている共通性、すなわち関心なき共通性…カントはこれを精神と呼ぶのである」(リオタール)

つまり
快とはカントによると美学的に「無関心」で「概念のないもの」。美は「一つの声でいっせいに宣言される」「普遍的賛成」=一致という「コーラス」分かち持たれることが要求されるハーモニーであり一つの「判断」=議論、認識され得ない信念…判断は感覚に含まれ「我思う」を予め要請する。(カント 「判断力批判」(上))

そんな感覚=判断に知性は触れることはできない。何故なら心が既にそこでは奪われており、ただ選ばれるのを待つだけだからである。
一つの「美」の取り仕切り(メナージュ)とは「美」=「家」

夫婦(メナージュ)が一致する時、それを仲が良いというのだ。それは正しいとも、間違ってるとも言えないような方向性の定められた「快」=「我思う」の原点 オイコノミア 
それは「自然」=「必然」という小宇宙なのである。

上記 全て 以下より


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