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記録という視点

子供の頃、実家の最寄り駅の前に噴水があった。最近、駅に昔の駅舎や近隣の商店の写真が展示されているのを見て、そのことを思い出した。噴水はいつの間にかなくなってしまったのだが、いつなくなったのかが思い出せない。

展示やインターネットの写真によれば、私が5歳くらいまではあったはずた。一体いつ噴水が取り壊されたのか、知りたくなった。そこには「自分がいつ頃のことまで覚えているのか」という好奇心が混ざっている。何せ、いまだにその噴水の音を覚えているのだ。

こんな時、日記さえ書いていたら、と思う。日記で日々の出来事を書いていれば、いつ何が起きたのかが分かるのだ。だが一方で、私が日記を書いていたところで、果たして噴水の取り壊しについて書くのだろうか、とも思う。

日記については小学生の頃に何回か書こうとしたことがあるが、続かなかった。日記というものは、自分の内面、何か崇高な精神世界を綴らなければいけないような気がしていたのだ。

しかし今の私の欲求を満たすには、単なる"記録"で事足りる。「○年○月○日、噴水がなくなった」という情報の方がありがたいのだ。

それても精神世界の話をするならば、もし内面的な「感じたこと」が書けなくとも、"記録"としての「起きたこと」を書くことで、当時の自分の内面を表すことになるのではないだろうか。ありふれた日常の中で、何を拾い上げ、何を記すか。それはその時の私の視点であり、考えだ。「当時の自分はこんなところに目がいっていたのか」と、日記を読み返して思うであろう。『目に映ったものを描写することで、感情を表せる』という発想と同じだ。


しかし出来事の単なる"記録“を書くだけでは、やはりもの足りない。書いている時は、その“記録“が後にどんな役に立つのか、今ひとつピンと来ないからだ。

背伸びせず、無理をせず、自分の内面をできるだけ“記録“に近い形で記せていかたら、と思う。

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