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名前のない記憶

私の高校時代の担任は、現代文の先生だった。

先生の授業はちょっと難しかった。教科書はあまり使わず、芥川龍之介とかハイデガーに関する文献を印刷したものが教材として配られた。一行一行、丹念に読み進めながら、文章の「論」を教えてくれた。B4サイズにプリントされたものだけでも、4時限以上かけていたように思う。小難しいけれど、生徒ひとりひとりをちゃんと大人扱いしてくれて、なんだか自分の頭が良くなったような錯覚さえした。

3年生の最後の授業で、先生は授業らしい授業はせず、突然つらつらと、"こころにうつりゆくよしなしごと"を話し始めた——。

「小学生のころ、硬貨を握りしめて雑貨屋に行ったんだけど、握った手にぎゅっと力を入れて意気揚々と店までの道のりを歩いて行ったのに、ふと手を開くと、握っていたはずのお金がなくなっていて……あれはどこにいったんだろうなぁ。あのときは、本当に、なんともいえない物悲しい、寂しいきもちだったなあ……」

——『先生! なんの話してるんだよ!(笑)』私たち生徒は笑いながら一斉にツッコミをいれたが、先生が話してくれたそのエピソードは何故か、20年経った今でも私の中に残っていて、その時の先生の切なそうな表情も覚えている。

羅生門も現象学も面白かったけれど、ああいう掴みどころのない話もいいな、と思った。きっと誰もが、形のない、名前のつけようもない記憶みたいなものをどこかに持っていて、それがふと、自分の表層に浮かんでくることがあるのだ。

記念日でもハレの日でも何でもない、そんな"ある日"の印象や景色を、これからも私は書いていくのだと思う。

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