読書メモ 「ページと力 手わざ、そしてデジタルデザイン」

「ページと力 手わざ、そしてデジタルデザイン」
 鈴木 一誌
 青土社 2002年




内部で膨張するような独特の筆跡、改行のない偏執的とも言いたくなるような書きぶり。本書に掲載された中上健次の小説『奇蹟』の直筆原稿図版は、強力な磁力を発して私の目を引き寄せる。大きな図版でないにもかかわらず、こちらを威圧してくるような迫力がある。
おそらくテキストデータで原稿を提示されることが普通であろう現在、このような手書きの原稿を受け取ったら、と想像してみる。


著者、鈴木一誌氏はブックデザイナー界きっての論客であり、映画批評家でもある。東京造形大学在学中から杉浦康平氏の事務所にアシスタントとして12年間在籍した経歴をもつ。


「中上健次の、改行のまったくない生原稿を見るたびに多くのことを考える。ことばによって紙面を覆いつくそうとする迫力は、このまま書としての作品になりそうだと見る者に思わせながら、いっぽうでは、このままで読めるか、とも感じさせる。生原稿が本になるためには、本の大きさ、文字の大きさや書体、行長が割り当てられる必要がある。生原稿には見あたらない一行アキも、本には設けられている。表記ルールなどの編集や組版コードが当てはめられていくことで、失なってしまうものもある。印刷は、生原稿のある側面しか再現しない」(p.101)


鈴木氏は中上健次の原稿を「多くの決断と同時に捨てられた無数の選択肢が堆積した不安の迫力」(p.24)と表現する。そして言う。
「原稿のもっている不安に、その不安さにおいて組版は対峙できているか」(p.28)


鈴木氏は、ブックデザインというものを生原稿の全面的な再現として考えているのではない。かと言って、生原稿のもつ磁力の再現を放棄しているわけでもないように、私には思える。


「パソコンが普及し、画面からシンプル・テキストを抜きだす作業が、われわれの日常に浸透した。モニターや紙上にあらわれた文字面からシンプル・テキストを抽出し、それこそが紙面のたたずまいのオリジナルだという等号が、実感として獲得されてしまう。文書の電子化が進めば進むほど、唯一点としてのオリジナル、という遠近法の消失点は強化されると思います」(p.255)


鈴木氏が朝日新聞社を相手どり、1995年に訴状を提出した、日本で初めてのフォーマット・デザインの権利をめぐる裁判である「知恵蔵裁判」について語った言葉の一部である。


どうやら、私たちはシンプル・テキストというものにすっかり馴らされてしまったようだ。本来の「テキスト」というものは、いったい、何なのか。
逆説的だが、デジタルデータというものは「オリジナル」という概念を強化するもののようだ。与えられたテキストデータに、勝手に改変を加えることは許されない。
しかし、中上健次の生原稿は、このまま中上健次の小説として出版することは不可能である。そうしようとするならば、改行や改ページ、既製のフォントの選択や印刷術といった「翻訳」が必要になる。これはもう、生原稿を越え 、あらたなオリジナルを生み出す作業と言えないだろうか。そして知恵蔵裁判の問題点も、おそらくここにつながってくる。


知恵蔵裁判の経緯について、私は知らなかったが、松岡正剛氏のサイトhttps://1000ya.isis.ne.jp/1575.htmlから抜粋させていただく。

 知恵蔵裁判はフォーマット・デザインをめぐる裁判だった。鈴木は朝日新聞社の『知恵蔵』を、創刊版から一貫して表紙から本文デザインまで引き受けて四冊を作ってきたのだが、一九九四年版を前に編集長が交代して「リニューアルとデザインの変更」を申し渡された。唐突な通達に対して、鈴木は「レイアウト・フォーマットを流用した上で変更したい」「奥付に本文基本デザイン=鈴木一誌を入れてほしい」の二点を要請したのだが、朝日はこれを拒否、一方的に交渉が打ち切られた。のみならず、九四年版・九五年版は鈴木のクレジットもなく、支払いもないまま、従来フォーマットのまま刊行された。
 ここで鈴木が訴訟をおこしたのが知恵蔵裁判である。長い裁判のうえ、東京地裁は「原告の編集著作権は成立しない」として鈴木の訴えを棄却した。その後、控訴したが、結果は変わらない。知恵蔵裁判のもつ意味は大きい。編集やデザインの権利の所在はとても曖昧だったのだ。


デザイナーは、そのテキストのためだけに、特化したフォーマットを作成する。テキストとフォーマットとは、心と身体のように不即不離の関係にあり、したがってフォーマットは簡単に変更できるものではない。それが長年使用されることが前提の辞書というメディアならば、なおさらである。
朝日新聞社や裁判所に理解されなかった肝心な点は、鈴木氏は、フォーマット・デザイン一般に著作権を求めたのではなく〈知恵蔵のフォーマット・デザイン〉に著作権を求めていた、ということだと私は思う。


「あらわれが本質のたんなる写しでしかないのか、いやあらわれこそがすべてだ、という議論の構図に、知恵蔵裁判は見事にはまっている。朝日側や裁判所が、あらわれの向こうに本質を見、オリジナルを抽出していった。それに対して、こちらは、あらわれこそすべてで、かたちと意味内容は不即不離だ、との立場だ 〜後略〜」(p.263)


しかし鈴木氏は、こうも言う。
「ただ、あらわれにしか存在はないと言ったときに、何かがちがうな、とも思う」(p.264)


これはまったく私の勝手な解釈だが、もしかすると、そこには中上健次の生原稿を小説本として出版することは、本当の意味では不可能かもしれないというかすかな諦念が、あったのかもしれない。しかしそれでも、この生原稿をなんとか既製のフォントを使いデザインできないだろうか、屈するつもりもない鈴木氏が見えるような気がするのである。


結局、知恵蔵裁判は鈴木氏の敗訴に終わる。


「それ[レイアウト・フォーマット用紙]が知恵蔵の編集過程を離れて独自の創作性を有し独自の表現をもたらすものと認めるべき特段の事情のない限り、それ自体に独立して著作物性を認めることはできない」(p.251)


法律のことはわからない。しかし上記の判決文を読むかぎり、鈴木氏の考え方それ自体が、著作権という現在の日本の法律の枠組みのなかで語ることが困難なものだったのかもしれない。


鈴木氏は知恵蔵裁判と並行して「ページネーション・マニュアル(正式名称:ページネーションのための基本マニュアル)」を公開していく。その意図を「個性的なページネーションづくりのジャンピングボード」(p.181)の作成だと語る。マニュアルは改変するためにある。規律という不自由をあえて設けることで、デザイナーや編集者に自由を獲得することを求めているのだ。


この姿勢は、鈴木氏が積極介入した文字コード問題にも通底していく。そして、それは権力批判ともとれる発言につながっていく。


「複数の字形をなるべく多く集める。どの字形を選ぶかはユーザーに任せる、それが東大明朝の発想の原点だったと予想します。それが東大明朝の提案する民主主義です」(p.72)
「規準の開示がないコードは権力です」(p.73)


このような鈴木氏の政治的ともいえるアプローチは、デザイナーとしての日々の制作現場における、ミクロな思考が土台になっているのではないだろうか。


「ルビは本文に寄り添う。ルビは、本文という主線に並行して走るもういっぽんの線であり、行間という余白に棲まう副次的な流れである。ルビは、日本語の特質である 〜一部略〜 漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字の四種類の表記法の混在 〜一部略〜 ゆえに実現可能なスタイルである。ひらがなの本文に、漢字やアルファベットのルビが付されることがあるし、読みばかりでなく、意味やもとの綴りや注釈を示すこともできる。傍点や傍線を、ルビ的なものと考えるならば、ルビの裾野はさらに広くなる。
ルビを、主役を批評するトリック・スターだと捉えることが許されるだろう」(p.114)


鈴木氏のルビに対する考察である。本書では他にも多数の事例や引用に対して、示唆に富む分析が展開されている。


思考には必ずことばがともなう。デザイン体験は必ずしもことばにはならないが、デザインが思考され、実現されるためにはことばが必要である。


「デザインのことばにならない側面だけが強調され、作者であるデザイナー自身も、見えているものを記述することを恥じ、その結果が批評の不在を招いた」(p.108)
「体験はことばには置き換えられないという断念に支えられて、批評はある。ことばとたたかうためには、ことばを不断に受けいれるほかない」(p.109)


ことば、そしてテキストに、氏は対峙しつづける。


本書が発行されたのは2002年であり、ブックデザインが置かれている状況は、当時とかなり異なってきている。しかし、だからこそ本書の地点にいま一度立ち帰り、思考を続ける必要を感じている。
本書は2018年に増補新版が出ている。是非そちらを読むべきだったと思う。



(カッコ内は抜粋した本書のページ数)

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