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読後感想オルハン・パムク著『私の名は赤』

ノーベル賞作家の作品を全て読んだわけではないし、特に興味があるわけでもない。

けれど、小説や詩の世界の分厚い常識を破り、読む側が呆気に取られるほど真新しい手法や斬新な組み合わせ、ゾッとするような様式美に出会うとき、作家のプロフィールに、結構な頻度で「ノーベル賞作家」と書かれていることに気づいたりする(*個人の感想です)。

ガルシア・マルケス、ル・クレジオ、ヴィスワヴァ・シンボルスカ、カズオ・イシグロ、そして、オルハン・パムク。

偶然目にしたオルハン・パムクという名前。トルコという国や言語にしびれるほどの魅力を感じていた高校時代を思い出しながら、代表作と言われている『私の名は赤』を読んでみることにした。


複数の語り手

舞台は1591年の冬のイスタンブル。1299年の建国以来、版図を広げていたオスマン帝国にも徐々に翳りが見えてくる時代。
細密絵師の一人が殺害されるところから物語は始まるーー。

様々な仕掛けや伏線は、緻密に組み立てられ、まるで小説自体が一つの細密画のようにも感じられる。

そして、語り手がある一人の視点からではなく、主要な登場人物が代わる代わる出てきて語るという形でドラマが進行していく。そのため、立体的な建造物が少しずつパズルのように立ち現れてくるかのようであり、演劇のようなライブ感もある。

生き物として動きながら組み上げられていく立体の細密画。

ドラマが進むにつれ、立体細密画のピースも埋まっていき、徐々にひとつの立像として、全体としての迫力を伴って語りかけてくる。

その中の登場人物は、自分の言葉で物語を語っていくだけでなく、時折、読者に面と向かって語りかけてくる。その度に読者はぎょっとして、不審に思う。

「この人たち、実は隣の部屋にいるんじゃないの?」と。

まさか読者に語りかけることはこっちも想定していないので、世界が一瞬揺らぐような錯覚に陥る。

照明装置のない舞台

このドラマの舞台には、照明装置がない。
そして薄暗い画房や、イスタンブルのカビ臭くて薄汚れた裏通りが舞台のデフォルトである。

その暗さは、東と西の間に位置する国において、より強力で、インパクトの強い様式に翻弄され、伝統を脅かされていく時代の文化ゆえかもしれない。

映画『ツィゴイネルワイゼン』で「果物は腐りかけが一番美味しいのよ」というセリフがある。そのような朽ちる前のきらめきや、退廃臭が漂うからこその優美さを、作品の土台としてドラマは進行していく。

時折、瀟洒で豊潤な細密画や、まるで細密画と見まごうばかりの煌びやかな王宮、そして、カラとシェキレの愛の世界が、それ自体が照明装置のように自ら発光して登場する。

その退廃的な空気感に支配された最盛期の勢いや熱の余韻の中で、だからこそ、伝統の形式が言葉に尽くせぬほどの美しさを纏う。かといってそれらはもうすぐ消えていく運命を持ち、誰も止めることはできない。

神の記憶と盲目

細密絵師においては、年老いて盲目となり、神の記憶の中にある、神の見給うたままの情景を見、描けることが名人として最高の誉れと信じられてきたという。

やがてその神話は、目明きであっても、盲目と同じように神の記憶の中の情景を見、描く者こそが名人であるという逸話に変化していく。

このようなエピソードは、古今東西のあらゆる分野の名人が名人と呼ばれてきた所以でもあり、普遍性を感じる。

例えば、西洋画のように、遠近法など様々な技法を使って写実的に目の前にあるものを描こうとしてさえ、結局人は自分の感覚から離れることはできない。いつの時代であっても、どんな絵師であっても、結局は手の運ぶままに、体の動くままに、自分の内部に映し出された風景を描いているにすぎないのだ。

絵師に限らず、音楽家であろうと、書家であろうと、料理家であろうと、人は自らの感覚や身体性から決して離れられない生き物である。
それらは、無自覚の上に形成されているから、意識することすら難しい。

だからこそ、職人や芸術家は、感覚経験をより豊かにしようとするし、それをできる限り忠実に現出させるために、死ぬような思いをして技を磨くのだと思う。

「神の見た情景」は老練の絵師が、身も体もボロボロにまで追い込まれ、深い集中の世界に入った時に、初めて出現してくる貴重な感覚経験とも言えるのではないだろうか。

そう考えると、オルハン・パムクも、他のノーベル賞作家も、自らの内にある神の見た情景を描き出しているのかもしれない。

それは当然ながら誰にでもできる芸当ではなく、それを描く力量が備わっている名人が、熟慮と苦労を重ねた上に、ようやくたどり着く境地なのだと思う。

しかし、わたしたちのような市井の一読者であっても、文学作品から神の見た情景を垣間見られることは、得難い幸福であり、これこそが読書の醍醐味であると思う。

翻訳された宮下遼氏にも、「若いのにご立派な!」と、おばちゃんとしては感心ひとしきりだった。

語り手一人一人を描き分け、歴史文化の背景を含め、きちんと読者に伝わるようにするなんて、至難の作業だったのではないだろうか。
労作に心から拍手を贈りたい。










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