見出し画像

読後感想 多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』

多和田葉子があまりに面白くて、『エクソフォニー』から『地球にちりばめられて』『星に仄めかされて』『太陽諸島』三部作…と、暇があるたびに読みあさっている。

何を読んでも絶対的に面白い。いつ何時読んでも面白い。デューク・エリントンみたいだ。いっぺんに読んでしまうと寂しくなるので、それなりに他の本も交えながら、できるだけセーブして読んでいる。

『尼僧とキューピッドの弓』


2010年に書かれたこの作品は、紫式部文学賞を受賞した尼僧修道院の話だという。帯の紹介文には「熟年の女が第二の人生を送る修道院を訪れた作家。かしましい尼僧たちが噂するのは、弓道が引き起こした“駆け落ち”だった」とある。紫式部文学賞だけに、ちょっと官能的な内容なのかなぁ、と勝手に想像しページをめくった。

作家が出会う尼僧たちは、噂好きな割には駆け落ちした尼僧院長のことをあまり話したがらない。色々な噂話を聞いているうちに、こちらの期待感がどんどん高まる。

そのうちにモヤに包まれたような幻想的な場面が現れてきて、「おや?」と思っているうちに、びっくりするような意外な展開が始まる。

多和田葉子という人は、こういう「青天の霹靂」みたいな展開を、何事もなかったかのようにさらっと持ってくる。友達と旅行に行ってこういう行動をとられたらちょっと困っちゃうだろうけど、結果、あの時のあの勘すごかった!ってなるヤツだ(笑)

個人に選択の自由はあるのか


本書は、帯の内容に掻き立てられる想像とはちょっとずれていて、ごく真面目に哲学している気がする。

果たして人は、自分で人生を選択できるのか否か。

そういう真摯な問いが本書のテーマになっているんじゃないだろうか。

「わたし」は随所随所で自分の意志を通そうとするけれど、多くはままならない。「そんなはずじゃなかったのに」の連続だ。意志に反して転ぶし、相手も自分の思った通りには動かない。思いもかけぬところで事故も起こる。

そんな「わたし」だが、弓道の稽古では、自分の姿勢だけを意識し、意志を持ちたいという意志がなくなるという。意志とは無関係であるこの弓道だけが彼女の心を落ち着かせるオアシスのようにも見える。

それは別の見方をすれば、「自分の意志を人に委ねる」というファシズムの沼のようでもある。そこへ官能問題が入ってきて、良くも悪くも生活にヒビが入り、より自分の意志では人生が運ばなくなっていく。

自分の意志で人生を操るのに失敗してばかりの「わたし」は、それでもわたしの人生は全部わたしの選んだことだと思うに至る。

最後の審判の絵の一角でからすになっているわたし、すでに言葉を持たず、「かあ」としか言えないわたし。それでも早朝から棲家の掃除をしているし、ファシズムの沼をオアシスに戻す努力をしてきた。

わたしが決めたことではないけれど、やっぱりわたしが決めたことなのだ。誰かが見ていても、誰も見ていなくても、わたしであることに違いはない。「わたし」は、人間的に生きるために、人間をやめてもいいとさえ思う。

「意思を持ちたいという意志がなくなる」のは、実は究極の自由だという気がする。そう、人が見ていようといまいと、意志で選ぼうと選ぶまいと、人間であろうがなかろうが、これが自分が選んだ人間的生き方なのだ。

個人に選択の自由はあるのか

今になって考えると、本書は宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』のおばさん版のような気もしてくる。(制作年は映画の方が後だけれど)
あの映画は、私が思うに出産映画だ。出産といっても、赤ちゃんだけじゃなくて、色々な物事が生み出される生命力がムクムク湧いてくる映画、という意味で。

青鷺は、ここではからすで、わたし自身なのだ。

「わたし」は、心の落ち着くオアシスに連れて行ってくれる弓をからすの翼に持ち替える。バタバタと翼を動かすと、ありもしない翼の筋肉に飛び立とうとする力がみなぎってくる。




*多和田さん体験記はこちらにもあります。
ご笑覧ください→「ズレが生む創造性」









この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?