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ズレが生む創造性

多和田葉子を勧めてくれたのは写真家のIさんだった。
Iさんの車に乗せていってもらい、仕事で三重県まで行った。
その道中、ありとあらゆる話をしたけれど(なんせ片道5時間かかる)、
とりわけ本の話で盛り上がった。

わたしは若い頃、翻訳家になりたいと思い、勉強した時期があった。
でも英語を日本語にした時に「ピッタリ」な言葉を見つけられず、
苦しくなって翻訳の勉強をやめてしまった。

「今になって思えば、そのズレこそが面白かったのになぁ」というと
Iさんは「まさにそんなこと言ってるのが多和田さんなんだよ」と教えてくれた。

エクソフォニー

最初は「エクソフォニーから」と、勧められるままに読んでみた。
衝撃だったのは「なまりや癖をなくそうとすることには意味がない」と言い切っていることだった。

「むしろ現代では、一人の人間というのは
複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所であり(中略)、むしろなまりそのものの結果を追求していくことが文学創造にとって意味を持ちはじめるかもしれない」

『エクソフォニー』より

これまで自分がいつの間にか「正しい外国語」「ネイティブスピーカーに近づく」ということを目標に外国語を勉強していたこと、外国語として言語を捉えるや否や、アートや文学の世界にまで「上手」「下手」の価値基準で測っていたことに気付かされ、愕然とした。

カルチャークラブ


思い出したことがある。

わたしが中学生の頃は、MTVの創成期だった。ブリティッシュロックが再興しカルチャー・クラブやデュラン・デュランなどが同級生の間でも超人気だった。


ある日カルチャークラブ派の友人が「カーマは気まぐれ」という邦題のついたカルチャークラブのヒット曲が「歌えるようになった」とドヤ顔で言ってきた。


その頃は英語の歌詞を入手するのも、今みたいに簡単なことではなかったように記憶している。YouTubeでぱっと検索したら動画で観れるとか、夢のような話だ。

一体どうやって?と思ったら、彼女のノートの切れ端に意味不明のカタカナが並んでいる。

それは、彼女が耳でコピーした「カーマは気まぐれ」の歌詞だった。

アビバディーディーディカラスライクマイドリー
レッゴーデンリー レッゴーデンリーイイイー

え?これが英語??と思ったけど、
声に出して歌ってみると、確かにボーイ・ジョージにユニゾンして歌えるじゃないか!

「意味なんてどうでもいい。いいじゃん、歌になってれば」と開き直る友人を、わたしはソンケーのまなこで見つめた。

なんか爽快だった。

本物の英語

中学校入学前、キャッチセールスのおっさんに騙されて、カセットテープの教材を買わされたことがあった。(正確には「親」が買わされた)

「なんといっても、アメリカ人の本物の英語を聞くのが一番英語が上達する近道ですから」とおっさんに言われ、イチコロだった。

アメリカ人の「本物」の英語は確かにそれっぽかった。

ネイティブスピーカーの英語の発音を80年代初頭の田舎の子供が聞く機会なんてそうそうない。テレビでやってる洋画劇場とか、CMで流れるビートルズの曲くらいのものだった。

そのカセットテープによると、
「りんご」は「アポー」だったし、「鉛筆」は「ペンクソ」だった。

毎日、浴びるようにカセットテープを聞いた。
そして初めての英語の授業の時間に、自信たっぷりに「アポー」というと、みんなが笑った。

「わはは。アポーやて!りんごは『あっぷる』に決まっとるやろ!」
「あっぷる」っていう、カタカナを通り越して「日本語だろ、これは!」という発音を聞いて、わたしは大いに混乱した。

だんだんわかってきたことは、英語の先生の英語はカタカナで日本語化しているんだってこと。盆踊りしながら英語喋ってるんだなと思った。

それはわかったんだけど、なぜアップルがアポーで、ペンシルがペンクソにしか聞こえないのに「あっぷる」とか「ぺんしる」が「正しい英語」って言われなきゃいけないのか。

その疑問は、結構長いことわたしの中でモヤモヤと渦巻いていた。

当時、自分の耳がまだ英語に慣れてなかったから、聞き取れずにアポーとかペンクソに聞こえたんだよな、ということはわかる。

でも、「本当はそうとしか聞こえない」けど、これは英語ではないから、仕方がないからアップルに聞こえたふりをして、「あっぷる」って言ってみたり、「ぺんしる」って言ってみたりするのは、どこか自分を騙しているようで変に罪悪感があったのだ。

ってなことがあったので、中2の頃の友人の「カーマは気まぐれ」のオールカタカナ英語はかなりの衝撃だったのである。

え?聞こえてるままで言ってイイんだ??
でも確かに、歌詞としてはリズムにハマっててむしろカッコええ。

耳に聴こえている英語を、空耳でも、意味不明でも堂々とリズムに乗せて歌って、気持ちよくてカッコよければそれでいいじゃん。

思えば、わたしはこのカタカナ英語の歌詞で、ずいぶん色々吹っ切れたんだと思う。

ただ、「聞こえているまま」が正解で、しかも人の数だけ正解はある、と思えるところまでは辿りついていなかった。40年後の多和田との出会いによって、自分のモヤモヤがようやく晴れていったのだ。

空耳はクリエイティブ

以前ある作家のワークショップに参加した時、伝言ゲームをやった。
作家曰く「伝言ゲームでだんだん伝わっていることがずれていくでしょ?それが人間の創造性なんです」とのこと。

そう言われてみると、確かに機械やAIは絶対そんなことできない。
無限に伝言ゲームをやっても、正確にコピーしてくれるだろう。

だったら、ゲームなんか生まれない。

人間の想像力は思わぬところに潜んでいる。
ペンクソとかアポーとか言ってる隙間に、カタカナで英語を歌ってる気になっている得意満面な顔の裏に、きっと自分の生きてきた足跡のようなものと、うっすらとした創造の種みたいなものがあったはずだ。

読めば世界は変容する

多和田葉子は、そんなことに気づかせてくれた。

生きていれば人はいつの間にか手枷足枷をはめられ、また自分でもはめて、多様に変容する可能性を閉じてしまう。

この言語に対する気づきだけで、世界がガラッと変わる。
例えば「ネイティブスピーカーの発音がいちばんだ」という発想は、植民地支配とか欧化啓蒙とか敗戦をひきづっている日本人とか偏差値教育とかスノビズムとか様々なものを引き摺っている。

そういうモヤモヤドロドロしたものを、多和田葉子はいと軽快にバッサリ切り落とす。


読後は世の中自体が完全に変容して見える。
多分見ている自分が変わるのだと思う。


それにしても、40年経ってようやくあの頃の自分が間違ってなかったことに気がつけたのは、思いがけない副産物だった。

別に自分を騙す必要なんかない。そのまま聞こえてくる音を拾っていけばいいし、聞こえてくるノリに乗っけて言葉を話せばいいのだ。


多和田と出会えなかったらわたしはずっとあの頃のモヤモヤを抱えたままだったろうし、「正しい英語」を喋らなきゃいけないと思い続けただろう。

教えてくれたIさんに感謝しつつ、魔女のような多和田葉子と同時代に生き、リアルに作品が読める幸せを噛み締めている。




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