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『ハムレット』再読

中央公論社から出版された新修シェークスピヤ全集(昭和8年初版)。
そのうちの1冊『テムペスト』をずいぶん前に古本屋さんで購入。それをふと読み返したところから全集とご縁ができました。

三連休の中日。

第1巻の『ハムレット』から読み始めました。
逐一全部は覚えていないにせよ、既にあらすじもわかっていたし、今更読むのもなーと思っていたんですが、やはり第1巻に持ってくるべき代表作なんだから、一応目を通そう、くらいの気持ちでした。

ところが、読み始めるとやめられずに、一気読み。

単なる悲劇には止まらない、人間という生き物自体の理不尽さや感情の起伏、自己矛盾、そして生きることの不条理さなどが、生々しく迫ってきて、その豊潤な筆力にあらためて驚かされました。

シェイクスピアとの出会い


シェイクスピアを初めて読んだのは確か小学校5年生くらいの頃、家にあった福田恆存訳の全集だったように記憶しています。当時、BBCでのシェイクスピアのドラマをNHKで放映していて、面白いなーと思ったんです。

1950~60年代は、どうも日本中の家庭で全集を置いておくのが流行ったらしく、私の実家にも、誰も読みそうにない全集が書棚に並んでいました。シェイクスピア全集も他の全集同様、書棚の上の方に鎮座していました。

そんな具合で、シェイクスピアの代表作はその頃、一通り読みました。

時空を越えて愛される名作


やはり、長く愛されるモノには理由があります。

自分も歳をとって、読み方が変わったせいもあるとは思うのですが、
執筆後400年以上経っているのに、全く鮮度が落ちていないどころか、今の自分達も十分共感できる。

むしろあのハムレットの逡巡する感じ、今でも進路に悩む若者から、私たちのような一介の経営者まで、皆当てはまるのではないでしょうか。

若者に限らず、誰しも困難に向かわねばならない時、
竹を割ったようにスパッと決められる人はほぼいないように思います。

だからハムレットに共感し、感情移入していく。
そしてハムレットが間者に嵌められそうになったとき、
知恵と直観で嵌め返すような勇敢な場面に心から賞賛の声を送る。

悩めるシーンの多いハムレットですが、
そういった息苦しさの中に、上述のような胸が空くようなシーンがパッと織り交ぜられている。

シェイクスピアは、人間の心理を、無意識領域までよくよくわかっていたんだと思いますし、(私は演劇はまったく不案内ですが)それが舞台でどんな効果があるのかも緻密に計算していたのだと思われます。

いずれにせよ、人間性とは、いつの時代も変わらないものであることにも、あらためて気付かされます。

三木清、哲学者ハムレットを語る


坪内逍遥の訳の本編もさることながら、付録に書かれていた三木清の評論が素晴らしかった。

新修シェークスピヤ全集第1回配本附録より


400字くらいの中に、みっちり哲学が詰まっている感じ。
他の名だたる著述家や哲学者の中でも、際立っていました。

その気合いは並大抵ではないように感じました。
一字一句交換不可能なくらいきっちり詰められています。ハムレットに対する思い入れゆえなのか、三木清という人の性質ゆえなのか。

三木清は、西田幾太郎に傾倒し、ハイデガーに師事、太平洋戦争中、治安維持法違反で保釈逃走中の友人を応援した罪で投獄され、終戦翌月に獄中死しているそうです。

昭和8年の出版時に、自分の運命を悟っていたとは到底思えないのですが、これがこの時代の哲学者の作法なのか、三木清という人独自のものなのかは浅学の私などには定かではなく、これからあれこれ学んでみたいと思っています。

時間のずれが生み出す読書の愉しみ

いずれにせよ、1冊の本から出会いが広がっていくのは、読書の醍醐味の一つだと思います。

40数年前に読んだ本が形を変えて現れ、もう1度その世界を味わえる。そこからまた新しい広がりを得ることもできる。そこで作者、翻訳者、出版社、その物語に関わった人や歴史、事物に再び触れ、それぞれの時間のずれを超えてつながり、交流することができる。

むしろ、その時間のずれが読書という交流の方法の面白さで、そこから新しい視座を得たり、次の物語を生み出すきっかけになっているのかもしれません。

そういった意味では、読書も人の縁と同じくらい濃い交流の世界があるし、人の縁とはまた違った役割があるはずです。

50を過ぎて、そういった読書の新しい愉しみ方を知りました。
これからの出会いは未知数ですが、それだけに楽しさ倍増です。






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