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目指せ!俵を背負うおばあちゃん

私が夫と経営している会社は、映像などのコンテンツ制作と、コンテンツ制作を活用した人材育成を実施してきました。

コロナ禍では、撮影や対面でのセミナーに出向くことが激減。歩数は減るし、パソコンに向かう作業は増えるしで、不健康極まりなく。

加えて50も過ぎて、更年期?的な身体の変化もあってか、コロナ以降、これから先の不安ばかりが先行して…

巣立つ子、残される親

3人いる子どもたちもだんだん手が離れています。

長女はオーストラリアで学生、家に残っていた2人のうち1人は、つい先日某国立大の編入試験に合格、来春からは地方に移住することが決まりました。末っ子も今大学受験で、うまくいけば来春家から離れていきます。

きっと全ての親御さんが、こういう状況になると、嬉しさと寂しさが交差するのだと思いますが、私も紛れなくその一人。

自分が進学で家を出た時、大阪の下宿先への引っ越し作業が終わり、帰途に着く両親の寂しげな後ろ姿が、今更のように思い出されます。

「親になってみないとわからない」とはよく言われますが、まさにその通りで…。

そんな複雑な気持ちを抱えて自宅兼事務所にじっとしていると、だんだん鬱々としてきている自分に気づきました。

これはいけない、どうにかしないと…。と思いつつ、動こうにも先々の不安ばかりが募り、余計に鬱々してくる、という悪循環。

荷物が重すぎて目覚めた感覚

先日、久しぶりに地方での撮影がありました。
やはり現場は楽しいもの。
撮影対象の製造業さんのお仕事に向かう姿勢や、高い技術力にすっかり感心してしまいました。

あぁ 現場素晴らしい、と思いつつ、帰途に着いたんですが、その時偶々、一人で機材を全部背負って帰る羽目になり。

カメラ2台に三脚2台、レンズも2つ。まずどう持つべきかもわからない(苦笑)。

同席していたディレクターや関係者にも心配されつつ、どうにか帰宅。

「どう持つべきか?」は持ってみるとすんなりどうにかなったし、たしかに重かったんですが、翌日筋肉痛はほとんどなく、身体は意外と平気だったんです。
むしろ、「もっといける」感覚があってちょっと驚きました。

俵を背負うおばあちゃん

そこで今朝ふと思いつきました。

そうか。

昔の農家のおばあちゃん目指せばいいんだ。

炭俵を5個くらい積み上げて遠距離を移動していた、農家のおばあちゃんの古い写真を見たことがあります。

今までは、歳を取っても現役でいるということはどんなふうな姿なのか、全く想像できませんでした。

若い人の荷物にならないようにどう仕事すべきか。
人様のお役に立つにはどうしたらいいか。
かつ、自分にもやりがいがあることって一体何で、どんな働き方をすべきか。

ある意味人生の岐路、いつの間にかそんなことばかり考えていました。

人の役に立つことが生きがいになる

炭俵を背負っているおばあちゃんの姿は圧倒的です。
悲壮感は微塵もなく、強くてかっこいい。そして清々しい。

当時のおばあちゃんとしては当たり前だったのでしょうし、その時期の日本国中にとっても、ありきたりな風景だったのでしょう。

今では歳を取ったら、バリアフリー等、なるべく負荷がかからないことを推奨されています。

でも、それは本当に高齢者の役に立っているのだろうか。

周りが「お年寄りだから」と、仕事する機会を奪っているということはないでしょうか。さらには、本人がそういう思い込みをしていることはないでしょうか。

もしかすると多くの人は炭俵を背負っているおばあちゃんみたいに、実は能力に遜色なく仕事ができたり、場合によっては歳を取れば取るほど能力が上がったりするかも知れません。

バイアスが自分の人生を邪魔する

年を取っても俵をヒョイヒョイ運べるようになるには、当然ですが、若い頃から鍛錬していないと難しい。それは生活していく上で必須だったからこそ自然と鍛えられた力で、「トレーニング」して得たものではないように思います。

長く必要に応じて得た能力だから、それに対して「できない」という空想やバイアスは生まれようがない。

俵を運ぶおばあちゃんになるには、まずは「自分は年だから」「女性だから」と思い込んでいるバイアスをどうにかしないと。自分で自分を縛ることほど、大きな邪魔者はありませんから。

Stay foolish, stay hungry.

世の中には自分で限界の壁を作ってしまっていることがどれだけ多いか。
特に日本人は(自分も含めて)、その傾向が顕著だと思います。

俵をいきなり準備するのは難しいので、まずは日常生活で「出来っこない」「できても、すごく大変」と思い込んでいるものに、敢えて挑戦してみることから始めてみようかと思っています。






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