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発酵と日本文化の関係を改めて考えてみた

noteの下書きで「これはこのままお蔵入りかなぁ」と思っていたり、普段なんとなく考えているけれど、このまま誰に伝えることもなく終わるのかなぁと思っているようなこと、どなたもお持ちなんじゃないでしょうか?

そんな時に偶然、それと共通した記事や人を見つけて、嬉しくなることってありませんか。

実は私もありました。

私は、日本の伝統的な身体の使い方を稽古する、ある研究所の末席に加えさせていただいています。そのせいか、身体から文化を考えたり、自分の経験を身体経験として捉えることが多いのですが、自分で味噌を作ったり、甘酒を作ったりしてみて、ここ数年、「発酵」というものに興味を持ち始めました。

一方、仕事柄「人に何かを伝えるにはどうしたら伝わるのか」を考える機会が多く、普段から「物語」についてあれやこれやと試行錯誤しています。

そこで、去年の年末ごろ、こんなことを下書きに書きました。

物語性と身体〜型という発酵文化

物語は、実は身体にこそあるのではないか。
身体にとっての「物語」とは、ある意味「型」を指すのかもしれない。

「型」という身体技法は、文化を得た人間が暮らしの中で、ながい年月をかけて醸して来た感覚発生装置であり、最良で最善、最も美しいものを得るために、いかに身体運用するかという試行錯誤から生まれてきた。

裏を返せば、「型」とは、暮らしの中で、いかにしてより質の高い集中度を得ることができるか、それによりある時は生き延び、ある時には最高のものを拵えるために、どうやって作為なくその集中状態に入れるか、ということを追求した末にできた「必然性を引き起こすための有効な限定」である。

そこには、個人個人の身体だけでなく、集団としての身体や、それを形成していった風土、気候、環境など様々な要因が結集し、紡いできたものがある。

その意味から「型」は、「発酵」とも言える。

日本人が築いてきたあらゆる技芸には、その技芸なりの型がある。
文化はそれぞれに細分化され、状況や技芸の種類によって型も細分化された。

当然、歌謡や民謡にも型がある。それも、いわばながい年月をかけて地方地方それぞれの気候風土、そこに住む人々の人柄や暮らし、言葉など、あらゆる要素が醸されて出来たものである。

発酵するには排除するのではなく、あらゆるものを自然のままにして生かすことが大切だ。

それが、その土地特有の発酵食品や地酒となって独自に発展してきた。
西洋文明のように、神が一つで、自然は制服すべき敵とみなしていては、そのような発想は生まれ得なかった。

日本文化は、そういった意味において、発酵文化群だと言えるのではないだろうか。

発酵のプロの書いたnoteを見つけた

これはあくまでも素人の一考察に過ぎませんが、なんと発酵のプロフェッショナルが、上記と共通するような記事を書かれているのを見つけました。

この村井さんという方は、「種麹」というものを作る家業の方で、いわば発酵のプロ。偶然、別の記事に、私の画像を使用してくださったのがきっかけで、こちらの記事も発見しました。

そんなプロの方と、私みたいなテキトーな人間が、同じレベルで物事を捉えているとはとても思えないのですが、それにしても、少なくとも共通した見解を持つ方が、発酵という世界にいらっしゃることがとても嬉しかったのです。

きっかけを作ってくれたnote

noteに何か書こうと思わなければ、この村井さんの記事にも出会わなかったわけで、縁というものは面白いものです。

ささやかではありますが、こういう出会いが人生をちょっとずつ滋味深いものにしてくれると信じています。

というわけで、noteも地味に続けて、じっくり発酵させていこうと思います(笑)














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