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徒然草とwithコロナ

高校の教科書や問題集でちょいちょい出てくる徒然草の「花は盛りに」。

「恋人同士は離れていてこそ”もののあはれ”を感じるものなんです」と古典の先生がやたらと強調していたのを思い出す(何かあったのだろうか 笑)。

「男女の情けも、ひとへに 逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり...」(徒然草第137段「花は盛りに」より)

鼻息の荒い高校生には、到底理解できなかった。もののあはれの境地に達するには、老境の域に入らないと無理なんじゃないかと。

ところが今般のコロナ禍では、実際に会えない、触れることができないという状況が起こった。

鎌倉時代の兼好法師には、まさかこんな時代が来るとは思いもつかなかっただろう。師なら、この状況をなんと考えるだろうか。

「これが理想の恋人の関係。いとあはれ」とかのたまうのだろうか。

オンラインミーティング

実際に会えなくても、オンラインで、電波に乗った姿形と声は判別できる。でも、オンラインミーティングでくたびれた人は、結構多かったのではないだろうか。

ネット環境の違いに左右される、リアルタイムに音が届かない、というだけでは済まされないもどかしさを、私も感じた。会って話せば、すぐに伝わることなのに。

そこで改めて思った。リアルに会うって一体どういうことなんだっけ。

日本らしさは孤独?

この前友人が、Facebookで辻仁成さんの日記を紹介してくれた。その日記が、「リアルに会う」ことを改めて考えるヒントになった。

日本人は、もともと孤独をリスペクトしている、だからマスク好きな日本人はコロナでも勝利した、ということらしい。

そもそも我々日本人は、戦いの場面以外で、面と向かって対峙することは、あまりなかったんじゃないかと思う。

お茶の席でも、亭主とお客は正面で見つめ合うわけではなく、亭主の所作をお客は横から眺めることになる。

そんな日本人は、ハグしたり、人前で堂々とフレンチキスしたりすることは、特別なことでもない限り、やらない。アドリアンさんの言うように、マスクをつけて歩くことに、最初からあまり抵抗はなかったと思う。

そこで思ったことは、日本人は孤独をリスペクトするというより、「会う」ことの捉え方が、西洋人とは根本的に違うのではないか、ということだ。

温暖湿潤な気候が生んだ、超蜜空間での芸術

例えば、茶道の場合、狭いお茶室の中でも、お互いが窮屈に感じないように座採りをする。おそらく、それは作法以前の作法として、誰もがお茶室に入るときに特に意識せずとも、ごく自然に行っていることである。

それは、古来、湿度の高い日本において、お互いに気持ちよく過ごすために、間を取ることを身体で覚えて来たからではないだろうか。

お茶室のような狭い空間での芸術が生まれるのも、ある意味そういった濃密空間をわざとこしらえて、その究極に困った空間を、極上に居心地よくするための主客一体の修練の場であったのではないかと思う。

茶室のしつらえや、庭の作り、道具や軸、生け花など、もてなす主人の心細やかな配慮を、そのとき居合わせた人たち皆で体験する中で、一期一会の時間を持つことが、いつでも死と隣合わせで生きる宿命を持つ、武士の嗜みにつながったのだろう。

日本式他者との出会い

日本人はシャイであまり自分の意見を言わない、と良く言われるが、それは、遠慮や控えめというより、他者を迎え入れる態度が西洋とは違うということだと思う。

こんなにグローバルな時代になったんだから、と言っても、日本人は相変わらず口数少なく、いきなり会った人にハグどころか、握手ですら、滅多なことがない限りしない。

コロナ禍、オンライン会議の嵐の中で、マスク好きな日本人は、おそらくひときわ人肌を恋しく感じているのではないだろうか。

それは、温暖湿潤な気候などによって、リアルに肌を擦り合わせることは避けながらも、だからこそ、実際に会うことにこだわった日本人独特の性質ゆえであると思う。

日本式「リアルに会う」感覚は、会ってハグしてというような物理的「蜜」よりむしろ、互いの間に風が通るような距離感を保って、場を共有するというものに近いのではないかと。

兼好法師が「恋人は離れてた方が、いとあはれ」の前提にしていたと思しき「会う」ということも、リアルにくっついているというより、お互いにちょうどよい間合いを持った、場の共有に近かったのかもしれない。

With コロナ時代のコミュニケーション再考

今回のコロナ禍では、オンラインでできることと、やっぱりオフラインで、実際に会って触れてみないとできないことが、はっきりしたのではないだろうか。

単に新しいウィルスに対する免疫力をつけるとか、どう対処したらいいかを考えるというだけではなく、他者と出会うということ、コミュニケーションそのものを見直す佳き機会だったのではないか、と思う。

せっかくの機会だから(滅多にあるわけでもないだろうし)、出会うということがどこに向かおうとしているのか、引き続き観察していきたいと思っている。






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