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私の性格と仕事と多様性


#多様性を考える

 私は障害のある方のお手伝いを仕事としている。仕事だけど仕事ではない。仕事と意識して会話をしていない。素直に楽しいと感じながら、相手に興味を持ちながら話す。障害のある方と話すとき、障害特性で気をつけるポイントは抑えるが、いつも普通に話している。それはアナタだからできる事とよく言われる。他の人は身構えるらしいが、なぜ?障害があってもなくても、私たちは同じ人である。なぜだろう。私には人に対する境目がない。だから外国人でも同じ。日本語がカタコトでもあの手この手で話せてしまう。多様性に馴染みがない両親に外国人を紹介した。うんうん、日本人の典型的な反応というものを見たような気がした。外国人は悪い人…いや、日本人も変わらない。日本人が外国へ出かければ日本人が外国人。外国人の犯罪者もいるが、日本人の犯罪者もいる。今の仕事は元受刑者も対応している。犯罪に手を染めていても、心の奥のその人の光が見える。その時は罪を犯したかもしれないが、服役して社会復帰していれば、それはそれでいいのではないか。堅苦しい価値観に直面して悲しくなった。

 最近気づいた事がある。私は1年以内に外国人に詐欺に遭ったが、許せないという感情を持っていない。パワハラとかもいろいろあったが、特に相手に許せないと思っていない。不思議だ。喜怒哀楽の『怒』の感情の欠損かと思うほどだ。日常的に話し言葉を理解してもらうことが少ないせいか、伝わらない、理解されないことに対して楽しくて仕方がない。どうしたらわかってくれるのだろうか、と考えながら話すことがとても楽しい。一般的には怒れてしまう内容でも大概笑っている。あっそう、そうきたか!みたいな感じで大笑いしている。そして、別件で用事があっても話す機会があれば、みんなに声をかけている。こんにちはと返事がなれけば何かしらの反応を示すまで関わっていく。相手が自分のタイミングではない時に話しかけられて怒ってしまっても、それはそれ。挨拶はしてほしいから、必ず私から挨拶をする。おうむ返しでしか話されない方も半年間ひたすら続ければ挨拶ができるようになる。『おかえり』『おかえり』『おかえりと言われたらただいまです』『おかえりと言われたらただいまです』このやりとりが、ある日突然『おかえり』『ただいま』となる。おうむ返しの返事が当たり前だったから『おかえり』『ただいま』の通常のやり取りに違和感を感じる。子どもがママしか言えなかったのにパパを初めて言った記念日くらいの驚きになる。僅かな成長で感動を毎日体験できるから、感情が『怒』になっている暇がないのかもしれない。
 障害、人種、宗教、国籍、性別、価値観などの違いがあるから人生、生きてる!と感じるのではないか。生きてると感じる時は喜びや楽しみを感じているときだと思う。外国人の友人も仕事仲間も多い。私の環境は恵まれている。だって、いつも多様性の中で過ごすことができているから。
最後まで読んでいただき、ありがとう。感謝感謝です。


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