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イリーナ・ファリオンへの詫び状

バイデンの退陣で、1964年生まれの米民主党女性副大統領カマラ・デヴィ・ハリス(59歳)が大統領候補として脚光を浴びていた頃、ウクライナのリヴィウでは、ハリスと同じ1964年生の女性政治家イリーナ・ファリオン(1964ー2024)が銃撃され、死亡した話でもちきりだった。

数々の問題発言と強烈な個性で知られた『ウクライナ語の擁護者』ファリオンは、2024年7月19日、19時30分頃、自宅のあるトマス・マサリク通りで、未知の狙撃者がはなった銃撃を頭部に受けた。即死ではなかったものの、およそ4時間後の23時20分頃、救急搬送された聖パンテレイモン病院で死亡が発表された。

ファリオンが銃撃された直後から、彼女のお膝元でウクライナ語の都市リヴィウでは、地元紙や地元サイトが逐一ファリオンの状態を報告。数時間後には犯人像が共有され、日曜日の夕方に開かれたお別れの通夜、月曜日の午後に行われた埋葬の儀には、大勢の市民が詰めかけた。

一方で、東部や南部、キエフでは、型通りの報道しかされておらず、FacebookやInstagramでは「別に惜しくはない」と酷評する声もある。ファリオン銃撃に対するウクライナ語の都市とロシア語の都市における事件の受け止め方の違いは、ウクライナの現状が「一枚岩」から程遠いことを見せつけた形になった。

私自身は、ウクライナ語の学生として20年ほど前に初めてファリオンを知ったころから、「ウクライナ語を話す外国人」として優しく接していただいていたが、近年はお目にかかることもなく、会えば挨拶する程度になっていた。疎遠になった理由は、私自身が仕事でロシア語話者を受け入れざるを得ない立場におかれていたからだ。

それだけに、ファリオンが狙撃されたことを知った時の衝撃、死亡が確認されたときの悔しさと悔恨、自分に対する情けなさから未だに立ち直れずにいる。誰よりもウクライナ語を愛し、ウクライナ語に愛された女イリーナ・ファリオンの突然の死について、本稿では、7月19日の事件開始から葬儀が行われた22日までの状況をまとめておく。

(以下、文中敬称略)


ファリオン狙撃とその後

ここでは、私自身が事件を知った時間軸に沿って、まとめていく。イリーナ・ファリオンが狙撃されたとみられているのは、7月19日金曜日の19時30分頃。確定されていないのは、当時、事件のあったトマス・マサリク通りは計画停電中だったため、防犯カメラが作動していなかったのが一因だ。

この一日14-15時間にも及ぶ長時間の計画停電は、翌日20日から緩和されることが報じられていた。また、家族が伝えたところによると、ファリオン自身は20日から休暇でブルガリアに向かう予定だったという。これらのことから、計画停電中だった19日の19時は、狙撃して逃亡する最後の大きなチャンスであった。

銃撃音を耳にした住民の通報で、警察と救急が現場に到着。ファリオンは聖パンテレイモン病院に搬送され、そのまま手術室に入る。ウクライナ人の間で最も使用率の高いメッセージアプリTelegram(テレグラム)では、ファリオンが狙撃されてから10数分後には銃撃で搬送された件が報じられ、その後、死亡の報が入るまで刻一刻と続報が入っていた。

第一報では「生きている」と報じられたものの、その後、狙撃現場に残された血痕やストレッチャーで運ばれるファリオンの画像がシェアされると、症状が重篤であることが分かり、コメント欄な回復を祈るもので埋められるようになる。

狙撃から2時間後、ファリオンは手術室から集中治療室に移送される。その1時間後、担当医が報道に対し、怪我の状態を報告。重篤な脳昏睡状態で人工呼吸器を使用、非常に難しい状態にあると語った。それから1時間後の11時20分、ファリオンは意識を取り戻すことなく、永眠。60歳。狙撃から4時間後のことだった。

SNSの反応

ウクライナのメッセージアプリの主流はテレグラムTelegram。以前は男性の利用者が多く、仮想通貨や取引など、マニアックなチャンネルが目立ったが、戦争で女性利用者が増大。いまでは日本のLINEのような役割を果たしている。30代以上の世代、特に女性の間では、Viberもテレグラムに匹敵する利用者を持っている。

私がテレグラムでファリオン狙撃の報を最初に見たのは19日夜の8時少し前、リヴィウの地方ニュースチャンネルで、翌日の計画停電の時間割をチェックしている時だった。まだ詳細には触れられておらず、「リヴィウのマサリク通りで女性が銃撃された。報じられているところによると、撃たれたのはイリーナ・ファリオン。生存している。救急車で搬送された」という短い報だった。

このときはまだファリオンの怪我の程度が分かっていなかったため、ニュースに付されたコメントもふざけたものが多かった。トランプ銃撃事件の直後ということもあり、「トランプの次はファリオンか」という軽口も多く、「トランプ同様」、回復する怪我だろうと思われていた。「憎まれっ子は世にはばかるものだし」と。しかし、ニュースが続き、ファリオンの容態が重態だと分かると、こうした軽いコメントは姿を消していく。

一方、SNSの主流はインスタグラムInstagram。Facebookは若い世代では殆ど利用されなくなっているが、中高年の利用率が高い。特に、40代以上の利用率が高く、ビジネス利用も多い。戦争が始まってからは特に、40代以上、女性層のヘヴィーユーザーが増加している。

InstagramでもFacebookでも、リヴィウのコミュニティではファリオン銃撃の報が圧倒的となっていった。特に、Facebookのコアな利用層である40代以上・女性層というのがファリオンの支持層と重なっていたことから、Facebookのリヴィウコミュニティはファリオン一色となっていく。

ちなみに、私自身も死亡の報のすぐ後でFacebookにポストを出した。死亡が報道された23時20分、私の住む部屋は計画停電中だったので、スマホのテレグラムアプリでファリオンの死を知った。しばらく呆然としていたのを覚えている。23時50分頃に電気が回復したので、急いでお悔やみポストを出したが、この短い報にもあっという間に200近いナイスが付いた。

一方で、東部やキエフ、特に若い世代のつながりが挙って「友達」を解消してきた。これは私にだけ起こったことではなく、リヴィウのつながりが「ファリオンの襲撃死に哀悼のポストを出したら友達にバンされた」と報告している。

実際、テレグラムでもロシア語のウクライナニュースチャンネルの多くでは、ファリオン銃撃が報じられただけで、その後は、内務相とゼレンスキーのコメントが紹介された程度だった。ユーザーのコメントも、リヴィウのチャンネルに見られるような悲壮なものは殆どみられない。ファリオンの死が、ウクライナの西と東でまったく違う受け入れ方をされたことは、誰の目にも明らかだった。

犯人像(実行犯)

イリーナ・ファリオン銃撃の実行犯として手配されている『男』

現在までに伝えられている実行犯とみられている『男』について紹介していく。

警察の対応

21日、警察は「ファリオン銃撃に関与した可能性がある『ビデオの男』」の特徴を公開、捜索に役立つ情報を募集しはじめた。手配されている『男』の特徴は次の通り。

容姿
年齢 20歳くらい
身長 170-180cm
体つき 痩せ型

犯行当時の服装(とみられるもの)
ダークカラーのスウェットパンツと同じくダークカラーの長袖シャツ。その上に、ラテン文字のロゴが入ったボルドー系の半袖Tシャツ(画像のもの)。中央にロゴの入ったダークカラーのツバ広パナマ帽。白いソックスと靴底が白で赤と黒のバイカラーのスニーカー。

この手配は、発表当時から世間では失笑されていた。第一に、この『男』が目撃されていたのはファリオン銃撃の前日までで、当日、事件が起こった際には目撃証言もなければ、『男』が写ったビデオもない。ファリオンが撃たれた時間は、マサリク通りが計画停電を割り当てられた時間帯だったので、防犯カメラが作動していなかったためだ。

仮に、この『男』が実行犯だったとしても、犯行当日、手配にあげられているような奇妙な格好で現場に現れ、現場から去ったとは思えないというのが、誰もが考えるところである。

政党スヴォボーダの対応

この警察の対応を受け、ファリオンが属した政党『スヴォボーダ(自由)』は、ファリオン殺害犯に関する情報提供者に10,000ドルを提供すると発表した。資金を提供するのは、在米ウクライナ「スヴォボーダ」協会。犯人とみられる『男』の正体や所在に関する情報提供を求めている。

世間の見方

一方、世間では、警察が発表するより遥かに前、ファリオンが狙撃されて数時間後、まだ彼女が集中治療室に居た頃から、「おかしな『男』がずっとウロウロしていた」「奇妙な風体の若い男がファリオンの住む入り口を見張っていた」という近隣住民による目撃情報が、ネットやSNSに流れ始めていた。

防犯カメラによると、『男』は一ヶ月近く、常にその奇妙な風体でファリオンの住む建物周辺に現れている。一方、この『男』の正体に関しては、画像の段階で「こんな見るからにおかしな殺し屋はいない」「真犯人から目をそらすためのおとり」といった、実行犯ではないと見る見方が多かった。

また、映像『男』の外貌が中性的で、歩き方も男性らしくないことから、「男じゃなくて女よ。顎が小さいし、手も脚も華奢だし、喉仏はないし。170cmくらいの痩せた大学生の女が金をもらってウロウロするように言われたのよ。こんな『男』を探してても、実行犯も真犯人もみつからないわ」という声もあり、それにもまた多くの同調が集まっている。

真犯人

警察が実行犯として捜索している『ビデオの男』とは別に、「真犯人」が糸をひいているという見方は襲撃当初からある。おかしな衣装を着せられた実行犯は単なる傀儡で、彼(または彼女)はモスクワ(ロシア政権)に操られているといった見方で、これはロシア人やロシア語話者の多いXなどで拡散されているため、日本のマスコミも広く紹介している。

日本のユーザーには「何でもロシアがやったっていうのはちょっと・・・」と思われるようだが、私の知人では、東部やキエフの無関心層の方が好んでこの構図を受け入れている。「ウクライナ人がウクライナ人を殺した」という構図を受け入れたくない層にとっては受け入れやすい説なのだろう。

ファリオンが政治家として参加していた「スヴォボーダ(自由)」もこの説を口にしているが、リヴィウでも、ヴァシル・ストゥースやヴォロディーミル・イヴァシュークといった「モスクワに殺された英雄」の列にファリオンを並べる人々がいる。

一方で、より現実的な真犯人像としては、アゾフの兵士に対する舌禍で敵対したグループによる計画的犯罪が考えられている。ウクライナ語話者の私たちにとっては、この説の方が実感できる。アゾフ舌禍の後のファリオンへの憎しみは強かったからだ。私自身、ファリオンへの追悼ポストを入れた途端に、20代のつながりから非難のコメントをもらっている。

こうした経緯を見てきた私達にとっては、彼らの英雄であるアゾフの兵士たちをファリオンに「侮辱された」彼らが計画をたてたと考えるのは突飛な発想ではない。彼らの行動の、さらに後ろにモスクワのプロパガンダがいると考える説も存在するが、それを断定するのは時期尚早であろう。

イリーナ・ファリオンという女

スタイル抜群の金髪美女、女として完璧、ウクライナ語の擁護者、稀代の毒舌家、魔女、妖怪、老害。これらはすべて、イリーナ・ファリオンという稀代のウクライナ語学者に向けられたものだ。イリーナ・ファリオンは、人としても政治家としても公人としても、毀誉褒貶相半ばする人物だった。

ファリオンの毒舌は、自信に裏打ちされたものだった。40代くらいまでのファリオンは、才色兼備で弁がたち、スタイル抜群のスレンダー巨乳で運動神経も良い、地位も名誉もあって家庭も安定という完璧な勝ち組女性だった。

その分、美貌に陰りが見え始めると、盛大に揶揄される存在となる。アンチたちはこぞって、眉間にくっきり深いシワを寄せ、口を尖らせて論敵を口撃するファリオンの姿を強調した。


日本では、この頃のファリオン、魔女のような外貌で極端な言語ナショナリズムを振り回すファリオンの姿しか紹介されていないようだが、若い頃のファリオンは女優顔負けの華やかな美貌の持ち主だった。政策や見解では敵対する男性たちですら、「彼女を受け入れるのは僕には到底無理だけど、最初に会ったときは彼女の全身から目を離すことが出来なかった」と言っている。

略歴

イリーナ・ファリオンは1964年リヴィウ生まれ。リヴィウ大学の文献学部Філологічний факультетでウクライナ文献学を専攻する。ここでは文献学部と訳したが、Філологічний факультетは文献学部と訳されたり、哲学部と訳されたり、教育学部と訳されたりする、要するに、人文学を学ぶ学部。日本語の「文学部」に近いニュアンスの総合学部で、「フィル・ファク」と略される。

ファリオンは、リヴィウの文系学部の雄であるリヴィウ大学のフィル・ファクを優秀な成績で修了。母校で研究助手などを勤めた後、博士論文を提出して博士号を取得し、同じリヴィウの理系の雄、リヴィウ工科大学で文献学者として働くことになる。

とはいえ、ファリオンはもともと、研究室に閉じこもっているような研究者ではなく、その美貌と歯に衣着せぬ毒舌のおかげで、生涯を通じ、メディアの寵児でもあった。政治色も強く、ソ連時代の80年代には共産党の党員だったこともあり、晩年アンチによって蒸し返されることになる。

政治家としてのファリオンがもっとも活動的になるのは、2000年代で、2005年に「スヴォボーダ(自由)」の党員となる。リヴィウ工科大学准教授だった2007年の代議員選挙でファリオンは「スヴォボーダ」から出馬(選挙人リスト第3位)して、当選。代議員として、親ロシアの大統領ヤヌコヴィッチや文科相タバチニークの追い落としに奮闘するなかで鋭い舌鋒が先鋭化、数々のスキャンダルを引き起こすことになる。

致命的だったアゾフの蹉跌

晩年のファリオンは極端な発言ばかりが取り上げられるようになる。ここでは、彼女に致命的な打撃を与えたアゾフ兵士に関する発言だけ紹介しておく。

ファリオンは2023年11月、「ロシア語を話すウクライナ軍兵士はウクライナ人とはみなせない」と発言する。この発言はアゾフ兵士を侮辱するものとして、彼らを英雄視する層、特に、若い世代から大きな非難を浴び、ファリオンの勤め先であるリヴィウ工科大学でも学生が集結。大学に対処を要求する騒動に発展した。

学内にはファリオンの支持者もいたものの、11月15日、大学が正式にファリオンを解雇した。ファリオンはこの解雇を不当として提訴、地方裁では解雇相当とされたものの、控訴審で逆転勝訴し、教授として復帰することになる。この控訴審では解雇されていた期間の給与を補填するよう大学側に指示、ファリオンは受け取った補填給与でウクライナ軍に11機のドローンを寄付している。

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この舌禍事件は、表面的にはファリオンの勝訴、教授職復帰で終わっていたが、人気という点で致命的な事件となった。ファリオンの舌禍事件には、極端ではあるが、彼女のいうことも分かるという性質のものが多く、それまでの舌禍事件では、「ああ、またファリオンが極端なことを言っている」と大目にみられることも多かった。

しかし、非難の矛先がアゾフ製鉄所の兵士となると、話は別であった。先述のように、死後、Facebookに追悼のポストをおいただけでも、「英雄を侮辱した元共産党の女の肩を持つのか」と詰め寄ってくるほどの「ファリオン憎し」のユーザーが現れるほど、この発言はファリオンの人気に影を落とした。

私自身、アゾフ兵士に対するファリオンの発言をネットで見た時「ああ」と声がでた。それは、「ああ、また物議を醸すようなことを・・・」の「ああ」であり、「ああ、ファリオンは幾つになっても、ファリオンなんだなぁ」の「ああ」でもあった。

ファリオンのアゾフ発言について、言い訳をしない彼女の代わりに、私から一言いわせてもらえるなら、彼女があの発言をした当時、リヴィウのウクライナ語話者全体が避難民へのウクライナ語教育に絶望感を持っていたことを指摘しておきたい。

ロシアからの侵攻が始まった戦争初期、東部、特に、ハルキウから多くの避難民が西に流れてきた。大半がロシア語話者であった。彼らは当初、ウクライナ語を学習しようと試みてくれていた。生粋のウクライナ語話者、ウクライナ語の擁護者の間では「敵の使う言葉を耳にも目にもしたくない」という感情的な声もあったので、ことを荒立てたくないという思いはどちらの側にもあったといえる。

そうした動静に合わせてリヴィウには、TelegramやViber、会社のSlackなどを介し、ウクライナ語を勉強するサークルが幾つもできた。多くは会社や自治体、大学のサークルなどがイニシアティブをとるものだったが、移住民の方から、ウクライナ語を習いたいという声があがっていた。リヴィウ人のなかにも、移住民のなかにも、ロシア語話者がウクライナ語を習得することで両者の衝突を緩和したいという思いがあったように思う。

しかし、戦争から半年、一年とたつうちに、戦争開始直後に生まれたウクライナ語の学習サークルの多くが活動を休止。一時滞在していた避難民の一部は東部に戻って、ロシア語に回帰。残りの一部は外国にでたり、キエフに移住したり、いずれにせよ、ウクライナ語話者になった東部人は殆どいなかった。

結局、ロシアの侵攻開始後、「ウクライナ語も話せる人が増えた」「ウクライナ語を話せる人の需要が高まった」という変化はみられたものの、「ウクライナはウクライナ語を話すウクライナ人の国であってほしい」と考える人たちが望んだ「ウクライナ語しか話さない人」のパーセンテージは、増加も現象もしていないのが現状である。

そうした状況が明らかになってきたのが戦争から一年が過ぎた2023年の後半頃で、私のような非政治的な外国人ウクライナ語話者でも、ウクライナ語の将来について暗澹としていた。ウクライナのウクライナ語化に人生のすべてを賭けてきたファリオンは、私の何倍も暗澹としていたであろうことは想像に難くない。

おわりに

イリーナ・ファリオンは、非の打ち所のない外見の持ち主だっただけに、誰からも愛されるというような、世間一般の女性が考えそうなことには全く関心を示さなかった。自分が愛するものだけを大切にした。家族、ステパン・バンデラ(ウクライ・ナナショナリズムの象徴的指導者)、そして、ウクライナ語。それらを尊重する人間だけが、彼女に尊重される。ファリオンの愛情には、一切の迷いがなかった。

自宅でフラフープを披露するファリオン

このインタビューで、ファリオンは自分の部屋でフラフープを回している。それも、ガラスの戸棚のすぐ横で、インタビュアーと話をしながら。私も同じフラフープを持っているが、とてもあんな場所では怖くて回せない。戸棚を壊したらどうしよう、インタビュアーにぶつけたらどうしようと思うと、怖くて身がすくむ。彼女は自信があるから、平気な顔でそれをしている。

イリーナ・ファリオンは、すべてにおいてそういう人だった。彼女の自信が多くの人を引き付け、同時に敵も作った。普通の人間が100年かかっても得られないくらい、多くの人から、強烈に憎まれた。一方で、彼女の死後、「もうウクライナにあんな人は現れない」「ウクライナ語が全てのウクライナ人に話される日はもう来ない」と嘆く人々もいる。

私自身も、彼女のような、揺るがぬ自信をもった政治家、指導者はもうウクライナには現れないだろうと思っている。そうした個性は、いまのウクライナには必要ないものでもある。これからのウクライナについて少しでも明るい未来を想像するには、いまウクライナ、そして、ウクライナ語が置かれている状況は厳しすぎる。

送別の通夜 7月21日

日曜の夜に開かれた送別の儀の模様。開始前から通りにあふれるほどの人が集まり、各紙で詳細に報じられた。

葬儀 7月22日

葬儀は平日(月曜日)に行われたにも関わらず、送別の儀を上回る人々が参列して行われた。

画像はBBCより
ファリオンが埋葬されたリチャキウ墓所
銃撃された現場

ファリオン先生へのお詫び

ファリオン先生、私は貴方を大好きでした。貴方は私がウクライナで会った誰よりも優しく、美しく、魅力的な女性でした。アゾフの舌禍は貴方にとって致命的で、アゾフ後はリヴィウですら貴方を肯定することはためらわれる雰囲気でした。特に、学生たちと話すときは、「ウクライナ語にとっては欠かせない方なんだけど・・・」と口を濁すだけになっていました。

17年前、初めてリヴィウに来た頃と10年前の尊厳革命の頃、頻繁に貴方をみかけました。貴方のように、強くなりたかった。しかし、尊厳革命の後、ウクライナ語化に対する私達の姿勢は次第にマイルドになっていきました。リヴィウですら、高給をとれる職につくにはロシア語を受け入れるしかなくなっていました。

先生の死は、生きることの意味を私に教えてくれました。貴方と同じことはできないにしても、貴方が教えてくれたウクライナ語のために、最期の審判の日、貴方の前にたっても恥ずかしくない行いをして死にたいと思います。

ファリオン先生、ウクライナに生まれてきてくれて、ありがとう。

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