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『すずめの戸締まり』を見て

 昨日(書いている間に日付変わった)は『秒速5センチメートル』や『君の名は』で有名な新海誠監督の『すずめの戸締まり』を見ました。
 これまでの新海誠監督の作品同様、ネタバレ感想を書こうにも書けない、名作です。もし強引にあらすじを紹介して「これは東日本大震災がテーマです」等と書こうものならば、あまりにも質の低い、三流感想文になってしまいますし、そもそも映画を見れば判りますが、東日本大震災はテーマではありません。
 なので「内容を知りたい方は、是非映画を見てください」と言うしかない訳で、ネタバレ不可能な映画を作るのは、新海誠監督の才能と言っても良いでしょう。

 一方、『すずめの戸締まり』は他の新海誠監督の作品と比べると、ややジブリに似ている感じもあります。
 特に女の子の描き方が『秒速5センチメートル』や『君の名は』とは、全く違います。
 図案から性格まで異なる、ということです。そもそも『秒速5センチメートル』や『君の名は』は男性目線の映画でしたが、『すずめの戸締まり』は女性目線の映画である上に、その主人公の女性は美化されています。
 『君の名は』の三葉はリアルな女性でしたが、この作品のすずめはまさにジブリに出てきそうな女の子で、特に漫画版のナウシカにそっくりです。
 また「主人公の女の子がイケメンを助ける」と言う設定は、『千と千尋の神隠し』そのものでしょう。ただ、ハクの方が宗像草太よりもカッコイイと思ってしまいますが、新海誠監督が女性の好みをリサーチした結果かもしれませんから、そこはあまり深掘りしないこととします。
 また猫が活躍する点は『となりのトトロ』を連想します。『すずめの戸締まり』と『となりのトトロ』を結びつけるのはやや強引な解釈で、むしろ『耳をすませば』の方が似ているかもしれませんが、後述する通り『となりのトトロ』は新海作品の設定に影響を与えていると考えます。
 いずれにせよ、『秒速5センチメートル』や『君の名は』とはかなり様相の違った映画でしたが、ジブリも好きな私としては十分楽しめる映画でした。

 作品のリアリティーは『シン・ゴジラ』にそっくりで、もっと言うと、新海誠監督自身は恐らく宮崎駿監督に「下らない映画」と呼ばれた『愛国戦隊大日本』の影響を受けていると思われますが、そこも私は『紅の豚』を連想してしまいました。
 『紅の豚』の主人公はファシズム政権に弾圧されていますが、映画では別にファシズムや第二次世界大戦はテーマになっていません。同様に『すずめの戸締まり』も主人公の生い立ちに東日本大震災は大きく関係していますが、東日本大震災は映画のテーマではありません。
 ただ『紅の豚』と『すずめの戸締まり』に共通点があるというのは、単に私がジブリ好きだからそう見えるだけであって、この部分は過去の新海誠作品にも見られますから、私は「新海誠監督は『愛国戦隊大日本』のノリの人なのだろうな」と勝手に想像しています。

 それに関連して、『すずめの戸締まり』では父親が「全く」登場しませんが、それはこの作品ですずめが母子家庭だからであるものの、『君の名は』でも父子家庭である滝君の父親がワンシーンしか出てこないなど、新海作品では一般に父親の影は薄いです。
 何が関連しているかと言うと、新海作品では「父親」と「政治」の二つが、影を潜めています。例外が『君の名は』の三葉で、三葉の「父親」は「元神職で土建屋を支持母体にしている政治家」と、絵に描いたような古典的保守主義の政治家です。
 しかし、政治家の娘を主人公にしておきながら『君の名は』では政治的なメッセージは皆無で、古典的保守主義による政治(もっと判りやすく言うと「小泉改革以前の、自民党的な政治」)を“肯定的にネタにする”程度でした。
 とは言え『君の名は』も『すずめの戸締まり』もどちらも神道の世界観を基にしていますし、新海誠監督の父親も土建屋ですから、新海誠監督自身が伝統保守的な世界観を持っていることは容易に想像でき、事実そこから『君の名は』の三葉の父親の設定が生まれたのでしょうが、『すずめの戸締まり』では意図的に伝統保守的なものを隠匿しています。
 象徴的なのが「皇居の堀」を始め、皇居周辺の光景が執拗に映されながら、皇居そのものを描くことは丁重に避けられていることで、状況からして皇居の地下に「後ろ戸」がある設定なのは明白ですし、また、そのことは神道的な映画の世界観ともマッチしていますが、それを敢えて明示しないことは「政治」と結び付けられないための意図的なものでしょう。
 『となりのトトロ』のさつきとめいの父親は民俗学者で母親は病弱ですが、三葉の父親は民俗学者から神職になり、さらに病弱な母親の死後には政治家にまでなりますから、新海誠監督が「父親」を描こうとすると、恐らくそれは「政治」とは切り離せない、例えばただの「民俗学者のお父さん」を描くことは出来ない、だから映画から政治性を無くすためには皇居を隠すだけでなく、すずめの家が母子家庭である必然性もあったのでしょう。

 ここまでで勘の良い方はお判りかもしれないですが、この映画は恋愛映画ではなく、むしろ最後はシスターフッドで締め括られています。その辺りはジブリとも違う新鮮さがあり、百合のような美しさのある作品と言えるでしょう。


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