2022年9月20日~10月30日 ここ一か月ちょっとのこと
最近は小説を読む気が起きず、エッセイばかり読んでいる。体調は相変わらず。古本市が行われていたが、ミステリがあまりなく買うものが少なかった。本も最近はあまり買っていない。生活は少し変わったが、何と言うこともなく。そういえば最近胃カメラを飲んだ。今年に入って10kg以上痩せ(元々太り気味だったが)、心配になったからだが、何も異常はなく安心した。血液検査も異常はなかった。単純に食事の量が減ったからかも知れない。
エッセイは田中小実昌のものをよく読んでいる。やはり田中小実昌のエッセイは極上だ。平易な文章で、表現力豊かに、わからないものはわからないとし、言葉の用い方に対して厳しい目線を持ちながら、とぼけたような文章であちこちに話を飛ばしつつ軽快に文をつむいでいく。漢字が開かれることが多く、ひらがなを多用した文章も特徴的だ。人によっては目が滑るかもしれない。私にとっては心地よいのだが。とあるエッセイで、ヨーヨーに触れていて、年代的にハイパーヨーヨーのことと思われ、ちょうど世代だった私はコミさん(とあえて呼ばせてもらおう)と同じ空気を吸っていたことを実感し嬉しくなった。先述の通り、話題はあちこちに飛び着地点がないように思われるが、そこが田中小実昌のエッセイの醍醐味である。小説も同じ様にある意味とりとめもなく書かれるのだが、小実昌節とでも言えるこの書き方は、真似しようにも容易に真似できないものなのではないだろうか。自分で咀嚼できない言葉、納得できない言葉はことわりを入れて用いたり、懐疑の目を向けながら使ったり(あるいはまったく使わない)、かたくなに自分なりの言葉を使うコミさんの言葉に対する姿勢は、見習いたいものがある。ここまで言葉に真摯な人もあまりいないのではないか。わかったふりをしない、知らないものはきちんと調べたり、出会ったときに真剣に驚く姿勢も見習いたいところである。失礼を承知で言ってしまえば、エッセイから垣間見えるコミさんの様子は「あまりに自由で変なおじさん」なのだが、そこがそうは生きられない私たちにとって魅力的に映るのだろう。路線バスに「衝動乗り」し、目的地も決めないまま気ままの旅の仕方は、憧れるが容易に真似のできることではない。ギリシャでのバスで目的地を聞かれ「わからない」と現地の言葉で話したら、乗員乗客を巻き込んで議論になった、という話は笑わずにはおられない。
結城昌治のミステリエッセイ「一視点一人称」というものを読んだ。結城自身のハードボイルド観や創作論を示す貴重な文章であり、ミステリ論としても鋭い指摘にあふれた好エッセイである。今の時代、昭和のミステリー小説があまり読まれていない感じがあって、時代性に躊躇して読まない方がおられるのもわかるが、なにかとそれはもったいない、と思う次第である。時代性を加味しても面白いものはたくさんあり、それらが埋もれていくのを見るのは忍びない気持ちである。そもそも昔に書かれたものが古く感じられるのはごくごく当たり前のことすぎるではないか。それは感想に書くまでもなく前提条件としてある。そこを超えて面白いと感じられる小説はまだ大量にあ存在するのである。復刊が望まれる作品も多く存在するが、現状を見ると売れるかどうかは別問題のような気もする。なんとか奮わせようとされる編集者の方の意気込みは嬉しいので、版権や採算が取れるなら色んな出版社で続いてほしい傾向である。