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知実、おばんざい屋の女将になる(『編集者・石川知実の静かな生活』)

 友人の恵美が「おばんざい屋」を開いたというので訪ねて行った。
 恵美は京都の大学の時に知り合った。あたしは文学部で、彼女は理工学部だったが、共通の知り合いを通じて出会って意気投合し、あたしの大学時代の数少ない友人のひとりとなった。卒業後の彼女は誰もが知っている大手の製薬会社に就職した。傍目で見ても順風満帆なキャリアを進んでいた彼女だが、ちょうどコロナ禍の真っ只中だった二年前に、外資系のコンサルティングファームに転職し、東京に引っ越してきた。
 ちょうど引っ越してきてすぐの頃に、彼女の新居の近くの蕎麦屋で一緒に飲んで話したことがあった。具体的なことは彼女は何も語らなかったが、どうやら収入はあたしの倍以上はあるように推察した。それでもまったく嫌味なところを感じさせないところは、彼女の人徳によるのかも知れない。
 そんな彼女が「おばんざい屋」を開くという話を聞いてまず驚いたのだが、聞くと期間限定とのことで、彼女が通っている小料理屋を月一回のペースで間借りする形で営業するらしい。また基本的には彼女の知り合いか小料理屋の常連限定の会員制となるらしい。その開店記念の招待客としてお声がかかったという訳だ。
 お店は土曜日の18時から開けるということなので、開店に合わせて店を訪れると、すでに恵美とそのパートナーがキッチンにおり、そしてカウンターのスツールには男性と女性が一人ずつ座っていた。
「知実、来てくれてありがとう」
 恵美は笑顔で出迎えてくれた。和服の上に割烹着を着けたその姿はなかなか様になっている。あたしはまずビールを注文し、他のメンバーとは初対面だったので乾杯とともに挨拶を交わした。恵美のパートナーは話には聞いていたが会うのは初めてで、彼女にお似合いのスタイリッシュな雰囲気の男性だった。カウンターの初老の男性は、もともとのこの店の常連で、その隣の年配の女性はこの店の本来の女将とのことだった。
 突き出しに箸をつけている間にも、次々と新しい客が入ってきたので、十人も入ればいっぱいになる店内は早くも満席となった。
 カウンターの上には大きな鉢が五つ置かれ、いずれも恵美が用意したおばんざいとのことだった。彼女の実家は京都の丹後地方なので、いつも新鮮な食材が送られてくるのだという。そしてその素材を十分に活かした料理を作る彼女の味覚は確かなものであった。あたしが思うに、人の味覚は幼い時に食べたものに依存する。その意味で彼女は味の英才教育を受けてきたのだ。そして彼女の、すべてを肯定的にとらえることのできる鷹揚さは、両親の愛情を一身に受けて育った賜物に違いない。
 そして店内はまさに異業種交流会の体を成してきた。彼女の前の職場の同僚、今のファームの関係者や知り合い、そして以前からの常連が入り混じっての、賑やかで和やかな場となった。あたしは恵美以外は初対面という中にあっても、すぐにその空気に溶け込むことができた。そしてほろ酔いより少しばかり酔いが進んだところで家路についたのであった。

 恵美の「おばんざい屋」を体験して、あたしは自分でもやってみたくなった。
 ただ、いきなり恵美がやっている小料理屋にお願いしに行くのも気が引けたので、自分で探してみた。最近では一般の家や店舗を時間単位でレンタルできるインターネットのサイトもあるので、いろいろな条件を入れて検索してみると、湯島にちょうど良い物件が見つかった。そこは十人ほどが入れる広さであったが、カウンターとキッチンがあり、しかもキッチンが広めなのが気に入った。あたしは二か月後の金曜日の午後を予約した。
 「おばんざい屋」とはいっても飲食店の営業許可を取ったわけではないので、あくまで私的なパーティーということで、知り合いだけに声をかけた。メンバーはすぐに集まった。
 会費は四五〇〇円に設定した。食べ放題、飲み放題である。これで場所のレンタル費用と、酒とおばんざいの原価を支出して、利益が出るか出ないかくらいのちょうど良い塩梅となった。元よりこれで利益を出す気は毛頭ない。

 当日は丸一日、有給休暇を取っておいたので、朝に健太を見送った後、おばんざいを作り始めた。今回用意したのは、とりの南蛮漬け、茄子の煮浸し、きんぴらごぼう、ほうれん草と豆腐の胡麻味噌和え、もやしのナムルの五品である。まず最初にとりの南蛮漬けを作って冷蔵庫にしまい、味を染み込ませた。続いて茄子の煮浸しもしっかり味を染み込ませるために、作ってすぐに冷蔵庫にしまった。きんぴらごぼう以下三品は、割と簡単にささっと作った。うちには大きな鉢がなかったので、百均で買った大きめのタッパに詰めた。
 16時30分に今回レンタルした店に入り、準備を始めた。あたしは着物や割烹着を持っていなかったので、ノースリーブの青のワンピースを着た。鏡で見ると、おばんざい屋の女将というよりスナックのママといった感じである。17時頃に恵美が応援のために早めにきてくれて、支度を手伝ってくれた。そのおかげで17時半には準備も完了し、18時のオープンを待った。
 開店直後に来てくれたのは、作家の梅田サクラコ先生だった。
「知実ーっ!あんたの料理を食べに来たぞっ!」
 白髪のベリーショートにパンツルックの先生は、いつものように張りのある声とともに現れた。宝塚の男役のようなカッコ良さだが、これで孫が二人もいるとはとても想像できない。先生とは前の雑誌の編集部にいた時に、エッセイの連載を担当してからの付き合いで、連載が終わってあたしが異動になってからもずっと付き合ってくれている。
「先生!お忙しいところ、ありがとうございます!」
 あたしも満面の笑みで出迎えた。
 今回の店「おばんざい知実」は、デフォルトの飲み物はハイボールのみというシンプルなメニューとしたので、先生にはサントリーの角瓶とウィルキンソンの炭酸で作ったハイボールとともにおばんざいを取り分けた突き出しを出し、まずは乾杯させていただいた。
 次に来てくれたのはカメラマンの内藤君だった。あたしのビールともだちでもある。
「内藤君、来てくれてありがとう!」
「知実さん、開店おめでとうです。差し入れにこれを持ってきました」
 彼は箕面ビールの六本セットを二つ持ってきてくれたので、ハイボール以外のお酒の選択肢もできた。彼は普段は神戸に近い御影に住んでいるが、たまたま東京での仕事に重なったので、わざわざ一泊分滞在を延ばしてこちらに来てくれたのである。
 続いて来てくれたのは、同じ「アートライフ」編集部の西田さんと光本さんだった。
「石川さん、開店おめでとうございます。小早川編集長からもこれを預かっています」
 西田さんは箱入りの一升瓶を手渡してくれた。見ると福島県の「国権」という銘柄の日本酒であった。もちろん小早川編集長にもお声がけをしたのだが、この日はちょうど別件があり来られないとのことだった。それでもこうして気遣いをしてくれるあたりが、彼らしい細やかなところである。
「西田さん、光本さん、来てくれてありがとう」
「今日は子供たちを旦那に任せてきたので、ゆっくり羽を伸ばさせていただきます」
 西田さんは微笑んだ。彼女の旦那さんは公務員として働いているが、家事にも積極的で、子供たちの送り迎えや食事の用意など、けっこう協力的に役割を分担してくれているそうである。そうした旦那さんがいるからこそ、彼女も仕事を続けることができているのだと思う。話に聞く限り、うちの健太とは違うタイプの旦那さんのようであるが、やはりこうした仕事を続けていく以上、パートナーとの協力関係が重要であると改めて思った。
 そして西田さんにくっつくようにやって来たのがアシスタントの光本さんである。彼女は普段おとなしいので、お酒の場に来てくれたのは正直意外だったが、楽しんでいってもらいたいと思った。
 さらに三人連れが来てくれた。前の雑誌の編集部で一緒だった佐々木さんと、彼が連れてきた若い男性と女性である。二人とも編集の仕事をしているそうだ。
「はじめまして、大西と申します。石川さんのことは佐々木副編集長からいつもお話を伺っています」
「はじめまして、高山と申します。今日は石川さんに色々ご指導いただければうれしいです」
「おいおい君たち、今日はプライベートなイベントだから、仕事の話はNGだぜ」
 佐々木さんが若い二人を冗談めかしてたしなめたので、あたしは、
「いえいえこちらこそ、今日は楽しんでいってくださいね」
と笑顔で応えた。
 
 これで予約をしていたゲストはすべてそろった。あたしはハイボールを作ったり、おばんざいをよそって出したり、グラスや食器を洗ったり、忙しく立ち回った。恵美が時々サポートしてくれたので大いに助かったが、ワンオペだと厳しかったかもしれない。
 サクラコ先生は光本さんを気に入ったようで、話が盛り上がっているようだった。光本さんもいつも以上に口数が多くなっているようである。二人は全然タイプが違うが、どちらも文学的な雰囲気を漂わせているので、けっこうお似合いの組合せである。
 初対面ながら内藤君と恵美も仲良くなったようである。どちらも関西人なので気が合うところや共通の話題が多くあるのだろう。
 西田さんは佐々木さん、大西さん、高山さんと親しげに話している。西田さんとこの三人は初対面であったが、同じ業界ということですぐに打ち解けたようである。
 あたしはゲストたちの間を順次回っては、差し入れで頂いたビールや日本酒も勧めつつ、場を盛り上げることにつとめた。気が付くとサクラコ先生と光本さんは大西さん、高山さんも交えて大いに盛り上がっており、内藤君は西田さんの隣に、恵美は佐々木さんの隣に来て、良い具合に座もシャッフルされたようだった。そしてあっという間にラストオーダーの22時半、そしてクローズの23時を迎えた。

 閉店後には恵美と内藤君が残ってくれて、後片付けを手伝ってくれた。グラスと食器はすべてレンタルした店の備品だったので、すべて洗ってきれいにして、手拭いで拭いて水屋に戻した。ごみは分別して所定のごみ袋に詰めた。テーブルとキッチンを拭き、フロアは掃除機をかけ、24時までには撤収準備が完了した。
「恵美、内藤君、二人とも遅くまでありがとう」
「いえいえどういたしまして」
「知実もすっかり女将さんが板についたね」
 あたしたちは店のカギをかけ、地下鉄の湯島の駅に向かった。内藤君は上野駅前の三井ガーデンホテルに泊まっているので、あたしたちを駅まで送ってくれた後は歩いてホテルまで戻るとのことだった。あたしたちは彼に礼を言い、ホームに降りた。恵美は代官山、あたしは目黒なので、途中まで一緒に乗り、あたしは大手町で乗り換えのために降りた。
「また私の店にも来てね。毎月開けているから」
「うん。恵美のおかげで今日はうまくいったわ。また勉強しに行くわね」

 おばんざい屋を通じて、また恵美とこうした付き合いができるようになったことはうれしかった。そしてあたしもまた「女将」業にハマってしまいそうな予感を感じていた。
 毎回、満席にならなくてもいい。毎回、メンバーが変ってもいい。来てくれる人の都合に合わせて来てもらえれば十分。そのくらいの距離感が心地良いのだと、あたしは思った。

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