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知実の震災手記(『編集者・石川知実の静かな生活』)

 2011年3月11日の東日本大震災は、あたしの人生の中でも最大の出来事のひとつとなるのは間違いない。
 当日午後、あたしは上野で打ち合わせを終えたところだった。そして編集部に帰る前に、急ぎでPDFファイルを送る用事があったので、駅前のマンガ喫茶に入った。
 当時すでにスマホはあったが、まだ今ほど使っている人は多くなく、あたしはいつもB5サイズのパナソニックのレッツノートを持ち歩いてモバイルの仕事をこなしていた。ただやはり当時は今ほどWifiが使える場所がなかったので、マンガ喫茶に入ってレッツノートをWifiにつなぐか、そこのPCを使ってファイルを送ることが多かった。
 PDFを送り、その受信の確認メールが来るのを待つために、手近な本棚にあったコミックを手に取って読み始めた。たしか『進撃の巨人』の第一巻だったと思う。しばらく読み進めていると、ふいに激しい揺れに襲われた。
 東京に住んでいると地震は日常茶飯事なので、すぐに収まるとタカをくくっていたが、いつまでたっても揺れは収まらず、かえって激しくなる一方だった。そのうち本棚の本が次々と落ち、備え付けのPCのディスプレイまで倒れ始めた。そして窓の外を見ると、景色が左右に揺れているのに気が付いた。あたしのいるこのビルは細長い雑居ビルなので、このまま倒れてしまい、あたしの人生もここで終わるのかと覚悟した。
 幸いビルは倒れることなく、揺れは収まったが、周りはひどい有様だった。店内にいた他の客も、足元に散乱したマンガ本につまずかないように慎重に移動を始めたので、あたしもそれにならった。そして非常階段を降りて何とかその場を離れたが、今から思うとそういう時の精神状態はちょっと異常で、その時はなぜか料金を払わずに店を出ることだけが気になって仕方なかった。
 あたしは上野公園に登り、西郷さんの銅像の前にたどり着いたところでようやく携帯を取り出した。電波はあるようだったのでまずは実家に電話をしてみたがつながらなかった。それで両親と恋人に、無事を確認するとともに自分は無事であることを伝えるメールを送った。しばらくすると着信があり、出ると編集長からだった。
「良かった、ともちゃん無事?」
「はい、なんとか……そちらは?」
「ひどい有様だけど、みんな無事。でも少し落ち着いたら、今日はみんな家に帰すから、ともちゃんもそのまま直帰してくれる?」
「……はい、大丈夫です。みなさんも、お気をつけて」
 どうやらその時は偶然、回線がつながったようだったが、あとはその日一日、電話回線はどこともつながらなかった。ただ両親からも恋人からも無事を知らせるメールが返ってきたので、あたしは意を決して上野から駒込の自宅まで歩いて帰ることとした。
 結果的にはこの判断が吉だった。当然、山手線は動いていなかったので、一時間ほどかけて歩き、陽の明るいうちに自宅までたどり着くことが出来た。後で聞いたところによると、恋人も編集部の同僚たちも、帰宅難民になって大変な目にあったという。
 自宅の中は、多少物が落ちたりしていたものの思ったほどひどい有様ではなかったので、まずは簡単に片付けをしたところで、今度はお腹が空いてきた。
 冷蔵庫の中にはいくぶんか食材はあったが、まだ余震が続いており、キッチンで火を使った料理は危ないと判断し、夜食用に買い込んであった日清のカップヌードルと焼きそばUFOを出してきて、カップヌードルをスープ代わりにしてUFOを食べた。テレビをつけると、どこか分からないが港のあたりで車が流されている映像や、千葉のコンビナートが燃えている映像が流れていたが、この地震がどれほどの被害をもたらしたのかまだ分からなかった。その頃は自宅に酒を常備しておく習慣がまだなかったが、たまたまサントリーの角瓶の半分くらい残ったのがあったので、小さめのグラスに氷と一緒に入れて飲み、早めに床に就くこととした。床に就いても何度も余震に見舞われたので、不安な気持ちにとらわれたものの、歩き疲れたのもあってかやがて眠りにつくことが出来た。

 地震の後しばらくは、電力不足とのことで計画停電があったり、ネオンを消灯したりして、街全体が暗く沈んだ。暗くなったのは電気だけでなく、テレビもCMがすべてACのものになったり、バラエティー番組が中止になったりと、「自粛」の雰囲気が世間に広がった。コロナ禍が始まった最初の数カ月のロックダウンの時、あたしは震災直後のことを思い出した。
 五月になって、大学の恩師の根本先生からメールを受け取った。正確に言うと、先生がメーリングリストに流したメッセージを読んだということになる。
 根本先生のゼミは、他のゼミから見ると珍しいほどゼミ生同士のつながりが強いようだ。大学院生や、美術館や博物館に就職した卒業生同士がつながっているのならそう不思議ではないのだが、根本ゼミではあたしのように一般企業に就職した卒業生も、年に三回ある「談話会」という集まりに気軽に来られるような雰囲気がある。
 それも、根本ゼミのメーリングリストの存在が大きい。メーリングリストには、年三回の「談話会」の案内とともに、先生の講演会やテレビ出演の案内、卒業生の働く美術館や博物館の展示の情報などが、月に数回の頻度で流れてくるので、「アートライフ」で働くあたしはとても重宝している。メーリングリストの管理は根本ゼミの大学院生が代々、引き継いできて、先生自身がメッセージを発信することは滅多になかったので、今回は珍しいことだった。
 先生のメッセージは、被災地での文化財のレスキュー活動へのボランティアを募るものであった。それによると、現地では多くの美術館や博物館が被災し、その収蔵品も流されたり傷んだりしたままになっている。すでに国もレスキュー活動を始めているが、あまりにも膨大な作業量のため、民間である自分もこれに協力したい。ついてはゼミ生にも協力を求めたい。そういう内容だった。
 ボランティアは一週間からでも受け付けており、仙台までの交通費と現地での食費は手弁当となるが、宿泊費と現地での移動等はまかなってくれるという。後で知ったことだが、この現地での費用はすべて根本先生の持ち出しとのことであった。
 根本先生の実家は宝塚で、1995年の阪神淡路大地震では大きな被害を受けたという。当時、文化庁に勤めていた先生はなかなか実家に帰ることができなかったが、被災されたご両親はボランティアの方々にずいぶん助けられたのだという。先生はそのことに深く感謝し、今回の震災では「恩返し」をしたいと思い立たれたのだ、ということも後になって聞いた。
 先生のメッセージを読んで、あたしもぜひ参加したいと思い立った。すぐさま先生に直接メールを送ると、すぐに返信が来て、六月の第二週に来てくれるとありがたいとのことだったので、すかさず「よろしくお願いいたします」とメールを返した。
 さて、有給はまだたっぷりあるが、会社にはさすがに断りを入れないといけない。翌日、編集長に「六月の第二週に被災地にボランティアに行くため有給を使わせてください」と言うと、あっけなくOKの返事をもらった。それだけでなく、
「せっかくの機会なので、自主的な研修期間ということにしておくわ。旅費は出せないけど、有給は取っておいていいわよ。ただ、現地での体験で記事を書いてね」
と言われた。この時の編集部は教育関係の雑誌だったので、被災地での経験も業務に活用できるだろうという編集長の温情だった。
「編集長、ありがとうございます!」
 次にクリアすべきは恋人だった。何となく反対されそうな予感はしていたが、案の定だった。
「そんな、危険だろ!福島の原発もメルトダウンして、放射能だってあるかもしれないし……」
「でも、あたしは今の被災地を見ておきたいの!」
 結局、恋人はしぶしぶ納得してくれたようだが、その後はしばらく気まずい感じとなってしまった。今になって思えば、あたしの意思よりも自分の了見を押し付けがちな彼の態度に、この頃から気付き始めたのだ。

 六月になり、あたしは日曜日の夕方に仙台に着いた。これからしばらく滞在することになるビジネスホテルに入ると、ロビーで吉田さんが出迎えてくれた。
「向井さん、おひさしぶり。遠いところご苦労さんです」
「吉田さん、これから一週間、お世話になります」
 吉田さんは根本ゼミの先輩で、今は埼玉の美術館で学芸員をしている。あたしよりも一回りくらい年上なので、もちろんゼミで一緒になったことはないが、談話会で何度も顔を合わせてお話もしたことがある。根本先生はちょうどこの週は現地に来られないので、吉田さんがリーダーとなっていた。
 吉田さんの話によると、すでに根本ゼミの大学院生二名が先週から入っており、あたしを加えてチーム根本は四名だという。またこの文化財レスキュー活動は基本的に文化庁が主導して行っているため、現地ではチーム根本は奈良の国立文化財研究所のチームの傘下に入って活動することになるのだという。
「今日はみんなオフなので、明日朝に顔合わせをします。朝六時から朝食が始まりますので、その時にみんなそろうでしょう。四十五分に出発なので、すぐに出かけられる準備をして降りてきてください」
「はい、分かりました」
 その夜は一人で軽めに夕食を済ませ、翌日に備えて早く床についた。

 翌朝は四時半に起床し、準備を済ませた。真新しい作業着と安全靴を身に着けると、気持ちも引き締まる。そして六時に朝食会場に降りると、すぐにチーム根本の四人が揃った。
 リーダーの吉田さんからあたしの簡単な紹介があり、その後、大学院生の二人が自己紹介した。どちらも修士課程の学生で、男性の方が安倍君、女性の方が久米さんといった。二人とも談話会で顔を合わせたことはあるはずだ。二人ともまだおぼこい感じを残していたが、その作業着姿にはどことなく自信を感じさせた。一週間前から入って現場の経験を積んでいるので、何もかも初めてのあたしよりも心強い。
 そして手早く朝食を済ますと、荷物を持って外に出た。六時四十五分ちょうどにハイエースがホテルの前に着いたので、あたしたちはそれに乗り込んだ。運転席と助手席には日焼けした作業着の男性がそれぞれ乗っており、車中で簡単な自己紹介を交わした。運転席の三十代前半くらいの男性は東村さんといい、国立文化財研究所の研究員である。細身だが、袖をまくったところから見える腕と手の甲には太い血管が浮き出しており、密かに血管マニアのあたしはうっとりとした。助手席の五十歳くらいの男性は高嶋さんといい、やはり国立文化財研究所の研究員で東村さんの上司とのことだ。日に焼けた精悍な顔立ちがなかなかダンディーな方である。
 十分くらいで、車は仙台城の中にある仙台市博物館に着いた。ここが宮城県における文化財レスキュー活動の本部となっているようである。着いて早々、七時から会議室でミーティングがあり、そこには四十名ほどの人が集まっていた。みな各地の博物館や美術館から集まった学芸員、そしてあたしたちのようなボランティアのようである。十五分ほどのミーティングで、各チームの今日の現場と作業内容の確認が行われ、その後はすぐにそれぞれ車に分乗して出発していった。
 あたしたち、すなわち国立文化財研究所の二名とチーム根本の四名の計六名の現場は、女川町のマリンパル女川だ。車で一時間半から二時間くらいかかるという。しばらく高速道路を走っていたが、石巻のインターで下に降りた。するとこれまで高速道路からは見えなかった、地震と津波で破壊された街の様子を目の当たりにすることとなった。
 石巻の市街地は海岸沿いに広がっているが、おおよそ無事な建物は見当たらなかった。ほとんどの土地はすでに瓦礫が片付けられて、荒地のようになっており、所々に瓦礫や壊れた車が高く積まれていた。
 街を進むにつれて、磯の香りを強烈にしたような臭いが立ちこめてきた。石巻の港には海産物の冷蔵庫が建ち並んでいたが、津波ですべて倒壊し、中に入っていたものが街に流れ出して腐ってしまったためだという。
 しばらくすると荒地のような光景の中にひとつだけ白いコンクリートの建物が残っているのが見え、車はそこに立ち寄った。それは石巻文化センターだった。市民会館と博物館が合わさった施設だったが、津波の被害を受け、建物こそ倒壊をまぬがれたが、収蔵品は大きな被害を受けた。あたしたちの車が着いた九時前には、すでに多くの人が作業を開始していた。
 あたしたちは車を降りると、中から運び出された彫像などが外に並べられているのを目にした。どれも泥で汚れ、さらに白い紙のようなものがまとわりついている。そういえばこれまでの魚の臭いに加えて、パルプの独特の臭いも混ざっているのに気が付いた。海岸部にあった製紙工場もやはり津波によって破壊され、パルプがここまで流されてきたのだという。
 国立文化財研究所の二人はここの担当者としばらく打ち合わせをしたようで、十五分ほどたってからあたしたちはふたたび車に乗り込み、女川町に向かった。
 石巻から車で三十分ほどの女川町も、市街地は津波によって完全に破壊されていた。そして海岸近くにただひとつ残された茶色のビルディングこそ、あたしたちの現場であるマリンパル女川だ。
 車を降りると、石巻とは少し違った臭いを感じた。やはり磯の香りの強烈なものに加え、ケミカルっぽい臭いも混ざっていた。吉田さんの話によると、サンマの冷凍倉庫が破壊され、街中に腐ったサンマの開きが散乱しているのに加え、重油のタンクも破壊され中身が漏れたために、このようなケミカル臭もするのだという。
 マリンパル女川は、一階部分は完全に流されており、郷土資料の展示室があった二階にまで津波が到達したため、中はぐちゃぐちゃの状態となっていた。そこから展示品を救出するのがあたしたちの仕事だ。
 二階は壊れたショーケースや、散乱した民具などの資料、流されてきた瓦礫に加え、サンマの開きがあちこちに散らかっていた。これらを片付けながら、救出できる資料を運び出すのである。国立文化財研究所の二人が的確に指示を出してくれたので、初めてのあたしでも迷うことなく作業を行うことができた。
 その日はあたしたち六人と、現地で加わった四人の合わせて十人で、途中でお昼休みをはさみながらも朝九時半頃から午後三時半まで作業を行った。そしておもに漁業に関連した百点を超える民俗資料を救出し、一階の仮置き場まで運び出すことが出来た。あたしにとっては慣れない力仕事であったが、一日の終わりには充実感を感じた。そして仙台まで帰る車中では、申し訳ないことにすっかり寝落ちしてしまった。
 チーム根本はホテルの前で降ろしてもらい、あたしたちは七時から夕食を取ることとなった。あたしは部屋に入って作業着を脱ぎ、シャワーを浴びた。爪の間に入った汚れや、全身に染み付いたサンマの開きの臭いは完全には取れなかったが、明日もまた作業なのでまあいいやという気分になった。
 夕食は仙台駅近くの居酒屋に入った。月曜日だが賑わっており、見ると復興関係で来ている客が多いような雰囲気だ。これだけを見るとここが被災地であることを忘れてしまう。
 あたしは学生の時のように、唐揚げなどの油ものをがつがつ食べ、レモンサワーを何杯も飲んだ。吉田さんも安倍君も久米さんもなかなかの食べっぷり飲みっぷりだった。体力にものを言わせる現場なので、ノリが体育会系になってしまうようだ。九時には切り上げ、ホテルに帰って床につくとあっという間に眠りに落ちた。

 翌日も女川町のマリンパル女川での作業だった。午前中は救出された資料を一時保管場所に移すための作業を行なった。資料をトラックに積み込んだところで、あたしたちも車で一時保管場所に向かうこととなった。
 一時保管場所は石巻と女川の間にあるサン・フアン館という文化施設だった。ここは支倉常長ら慶長遣欧使節を記念した資料館で、サン・フアン号という帆船が復元され展示されていた。津波があったにも関わらず帆船は沈まずに残っていたが、マストは折れ、あちこち痛んだようで、不謹慎で申し訳ないが『パイレーツ・オブ・カリビアン』の幽霊船を思い出させた。ただ資料館の建物は高台にあり、ほとんど無傷であったので、救出された資料の一時保管場所として用いられていたのだ。ここで資料を洗浄したり、ラベルを付けて整理したりする作業が行われている。
 トラックから資料を下ろし終えたところでお昼になったので昼食を取ることとなった。もちろん現地ではレストランなどはほとんど営業していないので、朝のうちにコンビニで買い出しを済ませておくのである。昨日はサンドイッチを買っておいたのだが、とても足りなかったので、今日はおにぎり三つとキムチのパックを買っておいた。普段なら絶対に選ばないものだが、スタミナを付けるためと、現場の臭いに負けないものということで選んだ。
 あたしは久米さんと一緒に、サン・フアン館の外のベンチでお昼を食べようと外に出た。資料館の入口には支倉常長らしいサムライのイラストの顔出しパネルがあり、「ようこそサン・フアン館へ 2011年3月11日」と書かれていた。
 ベンチに腰を下ろし、お昼を食べ始めた。その向かいには自衛隊のキャンプがあるのが見え、何人かの隊員が近くで作業をしていたので、あたしたちは「おつかれさまです」と声をかけた。
 すると隊員たちはそこを片付けて立ち去ろうとしていたので、あたしたちは、
「すみません、作業の邪魔でしたらあたしたち別な場所に行きますので」
と言った。すると隊員の一人が、
「いえ、自分たちの方が移動しますので、気になさらないでください」
と答えた。
「いえいえ、こちらこそ、あたしたちは気にしませんので……」
とあたしが言うと、
「……いえ、自分たちは身体も洗っていないので、若い女性の前に出るのが恥ずかしく……」
と隊員の一人が答えた。見るとまだ幼さの残る、二十歳くらいの隊員だった。その様子を見てあたしたちはハッ、となった。
 テレビで自衛隊の方々が被災地の救援に尽力していることは知っていた。仮設のお風呂を設置し、避難している人たちに入浴してもらえるようにしたというニュースも見た。しかしその裏では、自分たちのことは後回しにしながら職務にあたっているのだということに初めて気が付いた。

 三日目は一日目と同様に、終日、マリンパル女川での作業にあたった。そして四日目、仙台市博物館での朝のミーティングの時に、あたしたちのチームは牡鹿半島の鮎川に行くように指示された。
 鮎川は女川町よりさらに遠く、石巻の市街地から車でさらに一時間ほどかかるが、行政上の区分は石巻市となる。牡鹿半島の海沿いの道をたどって行くことになるが、道路のあちこちに地震と津波の傷跡が残っており、ところどころ徐行しなくてはいけなかった。
 鮎川は牡鹿半島の先端に近いところに位置する小さな集落である。かつて捕鯨の基地だったとのことで、おしかホエールランドという捕鯨の博物館があったが、津波で全壊し、そこは国立科学博物館のチームがレスキュー活動に携わっているとのことだった。あたしたちの現場は、牡鹿公民館にある鮎川収蔵庫という場所であった。
 牡鹿公民館はコンクリート造の二階建ての建物で、一階は完全に津波に流されたが、二階はなんとか使える状態だったので、ボランティアの拠点として使用されていた。公民館の隣には体育館があり、それにはさまれたところにプレハブの建物があった。これが鮎川収蔵庫ということであったが、入口のある側の壁は津波によって完全に破壊されていた。ただ幸いなことに、建物すべてが流されることはなく、入口から奥にかけて中のものが押し込まれた状態で残っていた。あたしたちの仕事は、その押し込まれた瓦礫の中から文化財などの資料をレスキューすることである。
 鮎川での初日は、瓦礫を運び出す作業に終始した。瓦礫の中からは大砲のようなものも出てきてびっくりしたが、一緒に作業に携わった地元の方によると、これは捕鯨用の銛を飛ばす銃身なのだという。
 運び出した瓦礫の中から資料を回収し、体育館の中に運び込んで仮置き場とした。体育館の建物は倒壊せずに残っていたが、床は取り外されてコンクリートの基礎がむき出しになっていた。あたしたちはそのコンクリートの上に資料を並べていった。体育館には他にも、ダンボールの箱がうず高く積まれていたが、これらは支援物資だという。
 地元の方によると、この体育館も下半分は津波によって水に浸かったという。話してくれた方も、地震の揺れが収まってすぐにこの体育館に避難したが、津波がやってくると、入口から水が入ってきてみるみる間に水かさが高くなっていったという。その人は急いで階段を上り、体育館の壁に取り付いた通路状の二階部分にたどり着くことが出来たが、下を見ると体育館の中に入り込んだ水が渦を巻いており、逃げ遅れた人がそれに飲み込まれているのが見えたという。

 鮎川での二日目は、あらかた瓦礫が片付いた収蔵庫の床の精査であった。大きな瓦礫を取り除いた後も、床には泥とともに小さな資料が散乱している状態だった。収蔵庫には土器や石器などの考古学資料も収蔵されていたので、それを可能な限り回収するのがこの日の仕事である。
 あたしたちの作戦は、五人が横に並び、入口側から奥に向かって同じペースで前進しながらスコップで土砂を取り除き、資料があったらそれを拾い上げるというものである。いわばローラー作戦である。この作戦を指揮したのは国立文化財研究所の二人で、考古学の発掘現場でも同じようなやり方をするのだという。さすがに普段から現場作業をやっている二人だけに、場慣れしている上に、あたしたちへの指示出しも的確かつ明瞭だった。
 作業を進めていると、土器などの資料が次々と泥の中から出てきた。あたしは子供の頃に祖父母に連れられて、北海道の厚岸町でやった潮干狩りを思い出した。出てきたのは資料だけではなく、古い写真のプリントもあった。汚れて見にくいものもあったが、中には家族を撮ったような写真もあり、どういう経緯でここから見つかったのかは分からないが、この家族は今どうしているのだろうかと、しばし手を止めて思いにふけってしまうこともあった。

 こうしてあっという間に五日間の日々が過ぎ去った。最終日の夜、チーム根本の四人に国立文化財研究所の二人も一緒になり、慰労会が開かれた。翌日には、あたしと二人の院生も帰ってしまうからである。
 慰労会は仙台駅の近くの海鮮系がメインの居酒屋で開かれた。チーム根本は京都の大学、国立文化財研究所は奈良にあるということもあって、関西の地元ネタで大いに盛り上がった。料理には殻付きのホヤが出てきたが、北海道出身のあたしのとっては馴染みのある食材で、磯の風味を満喫した。現場では磯の強烈な臭いがただよっていたが、だからといって食欲が衰えるということはまったくなく、むしろ身体はもっと野生的な風味を欲していた。それは体力仕事をしていたということもあると思うが、消費したカロリー以上に毎日飲み食いしたので、あたしはこの一週間で体重が二キロ増えた。
 この頃は普段はあまり日本酒を飲まなかったあたしだったが、この日は出てきた宮城のお酒「浦霞」にはまってしまい、しこたま飲んだようである。そして国立文化財研究所の東村さんがまだ独身だと聞いたので、そのあとしきりに彼に絡んでいたとのことだったが、あいにくあたしの記憶はそのあたりから曖昧になってしまっている。翌日、吉田さんにその時のあたしの様子を尋ねたのだが、彼ははっきりとしたことは教えてくれなかった。あたしは東村さんに失礼を詫びるメールを送ったが、彼からは「楽しい飲み会でした」とフォローする返事が返ってきた。それを額面通り受け止めて良いものなら良いのだが、彼に「うっとおしい女」と思われていないかと思うと、今でも少し後悔している。

 翌日、二日酔いに苦しみつつも朝食を取り、荷物のパッキングを済ませ、午前九時にホテルのロビーに降りてチェックアウトした。安倍君と久米さんもチェックアウトを済ませた。二人はこれから仙台空港に向かい、空路で関西に戻る予定である。あたしたちを見送るために吉田さんもロビーに降りてきてくれている。彼は来週前半まで滞在し、日曜から現地入りする根本先生と引き継ぎをしてから埼玉に戻ることとなっている。
「吉田さん、一週間お世話になりました。根本先生にもよろしくお伝えください」
「向井さん、おつかれさまでした。現場にいると気が張っているからスタミナが持つけど、帰ると疲れがどっと出ると思うんで、ゆっくり休んでくださいね」
 仙台駅で安倍君、久米さんとも別れ、あたしは一人、東京行きの新幹線に乗った。乗ってすぐに寝落ちし、気が付いたら上野まであと少しまで来ていたので、あわてて降りる準備をした。お昼頃には駒込の自宅に着いたが、その日はぼうっとしているうちに夕方になってしまった。翌日の日曜日は、梅雨時にもかかわらず晴れたので、洗濯機を三回回して、汚れた作業着やたまった下着などを洗った。そしてこの日も洗濯干しと、からっぽの冷蔵庫を埋めるための買い出しで一日が終わった。

 思えば被災地でのあたしははしゃぎまわってばかりで、はたしてどれほど現地の役に立ったのかは分からない。しかし被災地にいた時のあたしの異様なテンションは、凄惨な状況に心が押しつぶされないようにするための心理的な反応だったのかもしれない。
 それから何度か出張で仙台を訪れることはあったが、石巻や女川は再訪出来ずじまいとなっている。マリンピア女川は解体され、町自体がかさ上げした土地の上に再建されて、大きく風景が変わったと聞いた。震災から十二年が経ち、また彼の地を訪ねたいと思っている。


 



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